ベルカント唱法とは【cos’e belcanto?】
- 【bel canto】 イタリア語で『美しい歌』という意味。
- イタリアの伝統的な歌唱法。
- 喉に無理なく低音から高音まで、気持ちよくのびやかに歌える方法。
では、具体的にどのようにするのか、後のコーナーで詳しく説明します。その前に、日本の現状を説明しましょう。
日本の現状【la situazione di Giappone】
わが国に西洋のクラシック音楽が、本格的に入ってきたのは明治以降で、声楽の分野では、滝廉太郎や山田耕作あたりが先駆者でしょう。では、いったいどこから入って来たのか?彼らが留学した先ドイツからほとんどの理論や技術が輸入されたはずです。その証拠に音名を、日本ではドイツ音名で、A(アー)とかB(ベー)とか読むのが常識になっていますね。ほとんどの人が「このB(ベー)の音が」と言い「このSi bemolle(シベモッレ)の音が」とはあまり言いませんね。この様に、他のものと一緒に発声法もドイツから入って来たようです。
ベルカントの受難【la sofferenza di belcanto】
その頃、音楽関係の学校が招聘していた外国人講師も、ほとんどがドイツ人だったと聞いています。これは日本人の国民性から見ても、仕方がないことですね。あのイタリアの開放的で享楽的な性質は当時の日本人が受け入れられるわけがありませんね。残念なことに、この素晴らしいベルカント唱法は日本には伝わって来なかったのです。しかし現在、これだけイタリアオペラが盛んに歌われているにもかかわらず、驚いたことに、発声法は昔伝わってきたドイツ唱法のままなのです。
相反する発声法【la vocalizzazione contrastante】
本来、イタリア・ベルカント唱法とドイツ唱法とは180度、相反するものなのです。しかし、どちらが正しいとか間違っているとかの次元ではありません。ドイツものを歌いたい人はドイツ唱法を学び、イタリアものを歌いたい人はベルカント唱法を学ぶべきなのです。要するに一人の人間がどちらも歌うことは、あり得ない事なのです。本物を追求するならばどちらかにするべきです。ラテン系(イタリアもの・フランスもの)かゲルマン系(ドイツもの・ロシアもの)かを。この二つの民族は歴史的に見ても争ってきたはずです。
では、なぜイタリアものとドイツものを一緒に勉強するべきではないか?それは横隔膜の使い方がまったく違うからなのです。しかし日本の学生はどちらも勉強させられているののが現状です。大半がドイツ唱法でイタリア歌曲やイタリアオペラを歌っているのです。だから高い音が出にくいとか、レガートで歌えないとか、声が揺れるとかの問題が出てくるのです。
横隔膜の使い方【come si usa il diaframma】
声楽では当然、胸式呼吸ではなく、腹式呼吸を使って歌います。これは、どちらの発声法でも同じです。要するに横隔膜を上下させる事によって息を肺から出し入れするのです。もちろん横隔膜は筋肉ではありませんから、お腹の周りの筋肉を使います。さて、この横隔膜を使ってブレスをするまでは、どちらも一緒です。違うのはその後、息を吐きながら声を出す時です。ドイツ唱法ではブレスをした時の横隔膜(腹)の状態を保ちながら、(厳密に言えば、一瞬、下腹にカツを入れ)発声します。反対にベルカント唱法では下腹部を徐々に押し上げながら、横隔膜を上にあげていきます。要するに止まらず動いているのです。人はリラックスしている時とか眠っている時は腹式呼吸を行ない、お腹は出たりへっ込んだりしています。身体に余分な力が入っていない状態ですね。これとベルカント唱法は同じ動きなのです。まさに自然の生理に逆らわない発声法なのです。
支えについて【a proposito del appoggio】
マイクを使わず大きなホールでも、隅々まで声を響かせるためには、身体のどこかで声を支えなければなりません。ドイツ唱法では横隔膜の前面(下腹)に力を入れ、硬くして支えます。ベルカント唱法では横隔膜の後ろの面(腰)を徐々に下げて支えます。要するに、息を吐いて下腹を徐々に身体の中心に押していくに従い、それを引っ張るように腰を重くしていきます。身体の力ではなく、バランスで発声するのです。このように支えが腰にあると、身体の前面に力が入らず開放されます。胸や、喉も楽になり、手も自由に動き、オペラで演技が滑らかにできるようになります。
母音唱法【metodo cantare con vocale】
ベルカント唱法は別名、母音唱法とも呼ばれます。ドイツ語とイタリア語の発音の違いも、発声に大きな影響を与えています。まず、ドイツ語は子音が多く母音がつながり難い、その母音を発音する場所は口腔内である。イタリア語は子音は軽く、すばやく発音し、母音の発音する場所は鼻腔で、喉の状態は母音によって変化しない。すなわち母音が同じ音色、同じポジションで横につながり、まるで歌うように発音するのです。だから、イタリア語の歌を歌う時は大きなエネルギーを必要とせず、身体のバランスで歌えるのです。もちろんベルカント唱法で。
適材適所【giusto al posto giusto】
このように、その言語によってふさわしい発声法が、それぞれ存在するのです。イタリア語の歌をドイツの発声法で歌っても、良い結果にはなりません。その逆も真なりです。さらに、その民族にあった発声法を使わなければなりません。さて日本人に合うのは?体の骨格を見てください。ゲルマンの大きな筋肉と大きな骨格。彼らが大きなエネルギーをもって生み出したドイツ唱法。ラテンの小さな筋力と小さな骨格(世界的に見て)。彼らが自分たちの体に合った、大きなエネルギーを必要とせず、バランスで最大限の音量が出るように生み出されたベルカント唱法。どちらが、彼らよりさらに小さな体格の民族に合うのでしょうか?
マエストロ:ブルーノとベルゴンツィ
【mio maestro:Bruno e Berugonzi】
以上のベルカント唱法のテクニックは、イタリア留学中に私のマエストロ:ブルーノ・ダル・モンテから教わりました。
彼は現役のバリトン歌手ですが、(普通ヨーロッパでは現役の歌手はレッスンをしませんが、彼の奥さんが日本人の歌手、大塩ちあきさんで、あまりにも日本人が本当のベルカントを知らないのを憂いて)公演の合間に時間を割いてレッスンをしています。
ブルーノはこの伝統的、正統派のベルカント唱法を、あの有名なテノール歌手カルロ・ベルゴンツィから受け継ぎました。
しかしベルゴンツィ曰く、「現在(1990)イタリア国内でも正統的ベルカントで歌っている歌手はあまり多くなく、5.5人ぐらいだ。」と誰だとは言わず、ブルーノにこぼしていたそうです。
想像するところ、この5.5人はまず本人ベルゴンツィ、それからソプラノのスコット、フレーニ、テノールのパバロティ、バリトンのカップチルリ、これで5人。最後の0.5人とは、たぶんブルーノのことだと思うのですが・・・・なんと厳しいお言葉!この言葉の中には、《一生かけて本物を追求して行け、歌はこれで完成、終わり、という所はないぞ。》という意味が含まれている気がします。
パッサージョとアクート【il passaggio ed il acuto】
聞きなれない言葉だと思いますが、声楽では、呼吸法の次に大事な事柄です。日本ではパッサージョのことをチェンジというふうによく言いますが、この言葉は何か変化させてしまうような印象を与えるので嫌いです。
パッサージョとは通過とか経過音という意味です。人間の声は低音から高音に上がって行くとき、何ヶ所かで狭くなり、出し難くなる所があります。そこの位置をパッサージョと呼ぶのです。最初の出し難い所を「第一パッサージョ」または「擬似パッサージョ」といい、次の所を一般に「パッサージョ」といいます。
人によって多少違いますが、第一パッサージョは大体、一点シか♭シにあり、次のパッサージョは、大まかにソプラノとテノールでは二点ファか#ファ、メゾソプラノとバリトンでは二点♭ミかミ、アルトとバスでは二点#ドかレにあります。
そして、これらパッサージョの上の音を「アクート」と呼びます。アクートとは鋭いとか激しいという意味ですが、高音がそう聞こえるので付いた名前で、一般に「高音」という意味で使います。そしてソプラノ・テノールでは三点ドから上を「ソプラクート」(sopracuto)と呼びます。
パッサージョ・アクートの歌い方
【come si canta il passaggio ed il acuto?】
日本人の音に対する感覚はピラミッド型になっています。要するに、下の音が大きく、上の音が先細りに貧弱になっているのです。演歌などが最たるものですね。これはパッサージョをパッサーレ(passare)《通過》していないからなのです。それに反してヨーロッパ人の音の感覚は逆ピラミッド型で、上に向かって豊かに広がって行きます。
このような形にするためには、パッサージョでチェンジするのではなく、変化しないように、狭くなる所を広げてきれいな逆三角形の形にしてあげなければなりません。
具体的に説明すると、パッサージョを下からの声のままアペルト(aperto)で出したり、または、狭くなったまま絞めて出したりせずに、顎を充分降ろし、軟口蓋を開けて、まるで欠伸をするように声を出します。すると一瞬、自分の声が今までより少し聞こえなくなります。(実際に欠伸をすると周囲の音が小さくなりますね)こうなったら、うまくパッサーレしています。
けして、変化させるのではなく、変わらないようにするのが、パッサージョなのです。
さて、アクートも日本人と西洋人では感覚が違います。日本にいた頃の私も含めて、高音はきれいに、細く当てて、集めて出す。みたいに教わり、また信じていました。これでは聴衆を感動させたり、鳥肌が出るようなアクートは出せません。
西洋人、特にイタリア人の高音に対する感覚は、叫び、開放することなのです。パッサージョまで我慢してきたものを全部、自分の内面にあるものも含めて、すべていっきに外に向かって吐き出すのです。これはソプラノだろうとテノーレだろうとメゾ、バリトン、バスだろうと同じなのです。
具体的には、顎を充分降ろし、軟口蓋を開けて(ここまではパッサージョと同じ)、頬骨を高くし《頬っぺたの筋肉を上に引っ張る》、思い切り開放して叫びます。充分にパッサーレしていればただ単にアペルトな声になってしまう心配はありません。
したがって自分にとってアクートは非常に開放的に広く感じます。しかしイタリア人の声を聞くと細く、鋭く、集まって聞こえますね。《ビ〜ン》という感じ。でも、これはけっして彼ら歌っている本人が細く、鋭く感じている訳ではないのです。あくまで開放しているのです。そして自然にマスケラに集まって(raccogliere)いるのです。だから高音は怖いものではなく、楽しいものなのです。
次にソプラクートは、アクートで開いた顎を少し戻して、さらに頬っぺたの筋肉を上に引っ張ります。前歯が出て唇が逆三角形の形になります。自分の耳にはアクートより平べったく《キーン》という印象に聞こえます。
さて、これらパッサージョ・アクートの形ができたら、やっと一人前になります。イタリアにおいては、プロと見なされるのです。
私のもう一人のマエストロ、ジャチント・プランデッリがいつも、ディ・ステファノ(ほぼ同世代に活躍していた)を『あいつの歌はパッサージョがないからな〜』と言っていました。そういえば、スタイルのない歌でアクートはアペルトでした。若い頃は素晴らしい声でしたが、年になってからは、揺れに揺れて聞くに堪えない声になってしまいました。でも、さすが音量はありましたが・・・それにひきかえ、ジャチントは80歳を超えても声が揺れることもなく、アクートも衰えていません。いまでも元気に生徒達に教えています。
このようにパッサージョ・アクートは非常に重要なものであり、これのない歌はいくら声量があっても、素人っぽく聞こえ、また寿命も早く、声が揺れだし、高音が出難くなってしまいます。
レッスンの重要性【la importanza dei lezioni】
声は実際に自分が出して自分に聞こえる声と、人に聞こえている声とはかなり違います。(録音で自分の声を聞くと恥ずかしいことがありませんか?)だからCDなどで聞いてその印象で高音を真似しようとすると、喉に詰まった、痩せ細った高音しか出ないのです。これが一番声楽にとって怖い事です。自分には自分の声が正確には把握できないのです。
だからマエストロにレッスンをしてもらうのですが、ある程度できるようになると、自分でたくさん練習するようになりますが、これが落とし穴なのです。
一人で練習をしていると、自分の声を自分の耳で判断して出す訳ですから、外にどのように出ているか正確にはわからず、今出している声が人にも同じように聞こえているものだと錯覚をし、いつのまにか崩れていってしまいます。
パバロッティやフレーニでさえいまでも公演があるときには、自分のマエストロにレッスンを受けているのですから。というか、彼らは自分では練習はしないのです。声を出す時には必ずボイトレ(ボイストレナー)がいるのです。要するに独り善がりの声を出さない様にするためです。
最近はイタリアにも少なくなりましたが、『自分では譜読みはしてくるな!練習もしてくるな!』と言うマエストロがいます。これが本当の理想のレッスンですね。なぜなら変な癖もつかず、音程やリズムの間違いもなく、レッスンする側から言うと、まず治すところから始めなくてもいいわけですから、この方が近道です。これが、私の感心したイタリア人の考え方です。目先の出来不出来にとらわれず、長い目で将来を見てくれるpazienza(忍耐)があるのです。
いかに一流になろうと、声というものは、自分だけでは保っていけないものであり、定期的にレッスンが必要かつ重要であるということです。
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