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 なぜ戦争は起こるのだろう?

 ナチスはゲルマン民族は世界で最も優秀な民族だ、と声高に叫んで多国を侵略し、ユダヤ人をホロコーストに送った。

 昔、有楽町で右翼団体のものとおぼしき車の上で男が演説していた。男は薬剤エイズ問題に関して、「白血病だということは、人間として弱いということで、そんな人間は死んで当然だ。」という趣旨のことを、誰も聞こうとしない通行人に向かって、叫び続けていた。

 腹立たしい連中だ。そしてなぜ彼らがそう思うのか考えていくと、ナチスも車の上の男も一言で言って「ダーウィン」を勘違いしているのではないか、と思うのだ。ダーウィンは進化論で、環境に適応した生物が生き残り進化していった、と論じた。それでは、ユダヤ人を殺し、白血病患者をエイズにすることが進化だろうか?いやそれは違う。少なくとも、それは誰にも決められないことなのだ。

 なにが優秀でなにが進化でなにが正義か。それは人間が決定することではない。進化の過程というのは非常に遅く緩慢なものだ。恐竜は何億年生きたか?50億年ほどではなかったか?人間はいつから人間になったか?恐竜の支配した時間に比べると、断然短い。今までの生物で、自らの進化を自ら選んだ生き物などいない。あくまでも結果としてそうなったとしか言いようがない。

 ここに自らの理性への過大な期待を見る。簡単に言うと、自己への過信だ。強いものの散漫さだ。車の上の男が白血病になったとき、同じ事を演説し続けられるだろうか?出来たら大したものだ。まともな人間なら100%出来ないと思う。彼には人間として他者へのシンパシー(共感)が欠如しているように感じられる。

 更に考えてみる。「車の上の男は今現在白血病ではない。よって白血病になるなどという予想は考えから排除すべきだ。」という論に立ったとしよう。「自分は違うのだから、人のことなど関係ない。」という立場だ。

 一時期(比較的最近だ)「利己的遺伝子」などという言葉が流行り、自分勝手に行動することが人間の進化だ、などという考えがあったらしい。これは間違いらしい。利己的遺伝子という言葉にはそのような意味で使ってはいけないようだ。

 身近な例を取ってみる。電車の中で席を譲るのか否か・・・。

 A君は29歳の男だ。立っているのはそれほど苦ではない歳だが、腰痛持ちなのでできれば電車でも座っていたい。ドアが開き、見たところ80歳くらいのおばあさんが乗ってきた。どうやら、立っているのもやっとという様子。

 @A君は席を譲った。

  おばあさんは感謝して座り、楽になった。しかしA君は腰が少し痛くなった。

 AA君は席を譲らなかった。

  おばあさんは立ち続け、辛かった。しかしA君の腰痛はなかった。

 A君の立場からすればAの選択肢の方が魅力的だが、果たして本当にそうか?

 A君が歳をとっておばあさんと同じような立場に立ったとき、少しぐらいの腰痛を我慢してもらっても、席を譲ってもらったらそれはありがたいはずだ。お年寄りや子供連れに席を譲るという習慣の全くない社会だったら、席取りは早い者勝ちで、いくら辛い人であろうとも立っていなければならない。習慣のある社会だったら、席に座ることを必要としている人が優先的に座る。

 「適材適所」・・・ではないが、社会全体としてみて一番有益な選択というのは必ずしも一人一人の(その時に於ける)魅力的な選択であるとは限らない。

 「情けは人のためならず」・・・という言葉を「情けをかけるとその人のためにならない。」という意味に誤解している人が多いらしい(私もその一人だった!)。母に教えてもらったのだが、本当の意味とは「情けをかけることは人のためだけではなく、自分のためでもある」ということらしい。

 「白血病の人は死んでも良い」という社会はきっと恐ろしいほど殺伐とした社会だろう。人に対する共感など全くない世界だ。席を譲ることなどとんでもなく、人は悪いことをしてでもひたすら(その時々に於ける)利益を追求していくのだ。

 どちらがよいか?ここから先は、人それぞれの価値観の問題だが、僕のイメージでは共感のある世界の方が1万倍くらいは楽しいはずだ。

 世界は実は善意に溢れている。善意がなければこんなに人間社会は上手く行かない。もっと、飛行機が高層ビルにぶつかっているに違いない。その気になれば、人を傷つけることなど容易いと言うことを、テロは教えてくれている。多くの人が「その気」にならないのは、一つの善意ではなかろうか?