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第3回目を迎える「海のシルクロード音楽祭」に出演のため、山本公成氏と共に福井県小浜市にある「明通寺」を訪ねたのは、10月はじめのことでした。 僕がこのお寺に興味を持ったのは、会場となった本堂の内陣の柱に貼られた紙に書かれていた仏陀の言葉としての「己が身に引き比べて、殺すな、殺させるな、殺すことを見逃すな」という言葉と、控室となった寺務所に掛けられてあった、この寺の観光ポスターのコピーに書かれていた「将軍の祈ったのは、勝利ではなく平和であった」という言葉です。 この明通寺についての資料をいくつか読ませていただくと、寺の創建は大同元年(806)、最初の征夷大将軍として蝦夷征伐を行った坂上田村麻呂にさかのぼります。伝説によると、彼がこの寺を創建した理由は、桓武天皇の女御であった娘の無事な皇子出産を祈るためと、自分が殺してきた蝦夷の人達を弔うためと言われています。 朝廷は、蝦夷、熊襲と言った本来日本に先住していた部族を恐れ、その征伐を繰り返してきました。坂上田村麻呂が、数度の遠征の末、蝦夷の首長アテルイを捕虜にしたのは延暦21年(802)4月のこと。彼は、その助命を嘆願したそうですが、認められず、同年8月、河内の山中にて首をはねられます。明通寺創立は、その4年後のことです。戦いに明け暮れたであろうと思われる田村麻呂が54年の生涯を終えるのは、それから5年後のことです。熱心な仏教徒だったと言われる彼が、どのような想いで晩年を送ったか、想像できるような気がします。 福井県で二つだけ国宝に指定されている建物が、この寺の本堂と三重塔です。建てられたのは鎌倉時代、元寇の少し前のことだそうです。理不尽な外国からの侵略に、戦わなければならなかった武士の願ったのは、勝利なのか、手柄をあげることなのか、生き残ることなのか。この寺は、静謐な中にたたずんでいます。 海のある奈良と言われる小浜ですが、一昨年公演させていただいた羽賀寺、そしてこの明通寺にも、海の匂いは感じられません。 羽賀寺は716年(霊亀2年)女帝元正天皇の勅願により行基が開き、1447年(文安4年)後花園天皇の命により阿部康季が再建しました。長い木立の参道を登りつめると重要文化財に指定されている本堂があり、背後には鬱蒼とした山が迫っています。明通寺の本堂、三十塔、羽賀寺の本堂とも山を借景にしているのではなく、山の木々を従えているような雰囲気です。 小浜で食べた、おいしい物二つ。甘めの冷たい出汁に浮かぶ饂飩の上にトンカツがド〜ンと乗っている「とんかつうどん」。鯖寿司ならぬ「焼き鯖寿司」。大変美味でした。
「能登地酒列車&食談義」と言う企画に参加するために、和倉温泉に向かったのは、11月2日のことです。前日の夜に東京を地酒列車と言う特別列車に乗ってやって来た100名ほどの酒飲みと、和倉温泉の旅館「加賀屋」で合流し、能登半島の10カ所ほどの会場に分かれて、ゲストの方たちと共に食談義をするという企画です。
出雲の阿国については、その生年没年、また生まれについても定かではありません。様々な憶測はされますが、当時の公家、西洞院時慶の日記「時慶郷記」に慶長5(1600)年7月1日「近衛殿の屋敷で、ややこ踊りが行われた。一人はクニという踊り子であった。」と言う記述がなされ、他複数の資料が残されています。それらから推測すると、阿国たち10数名の旅芸人が、出雲大社本殿修復の勧進興行のために、諸国を歩き回り、1600年頃には、京都の四条河原で小屋をかけて踊りを披露していたと思われるようです。 京都は今、紅葉の観光シーズンです。鴨川にユリカモメもやって来ました。もうすぐ師走です。まだ一年の12分の1が残っているのに、「今年の一年は?」と思ってしまいます。ほとんど毎日、テロリストのニュースを聞いた気がしています。日本も例外ではないんでしょうけど、早く平凡な日々が帰ってくることを願っています。 どうぞお体ご自愛下さい。 2003年 霜月 新月の頃 |