近況報告 2003.11月


第3回目を迎える「海のシルクロード音楽祭」に出演のため、山本公成氏と共に福井県小浜市にある「明通寺」を訪ねたのは、10月はじめのことでした。
僕がこのお寺に興味を持ったのは、会場となった本堂の内陣の柱に貼られた紙に書かれていた仏陀の言葉としての「己が身に引き比べて、殺すな、殺させるな、殺すことを見逃すな」という言葉と、控室となった寺務所に掛けられてあった、この寺の観光ポスターのコピーに書かれていた「将軍の祈ったのは、勝利ではなく平和であった」という言葉です。
この明通寺についての資料をいくつか読ませていただくと、寺の創建は大同元年(806)、最初の征夷大将軍として蝦夷征伐を行った坂上田村麻呂にさかのぼります。伝説によると、彼がこの寺を創建した理由は、桓武天皇の女御であった娘の無事な皇子出産を祈るためと、自分が殺してきた蝦夷の人達を弔うためと言われています。
朝廷は、蝦夷、熊襲と言った本来日本に先住していた部族を恐れ、その征伐を繰り返してきました。坂上田村麻呂が、数度の遠征の末、蝦夷の首長アテルイを捕虜にしたのは延暦21年(802)4月のこと。彼は、その助命を嘆願したそうですが、認められず、同年8月、河内の山中にて首をはねられます。明通寺創立は、その4年後のことです。戦いに明け暮れたであろうと思われる田村麻呂が54年の生涯を終えるのは、それから5年後のことです。熱心な仏教徒だったと言われる彼が、どのような想いで晩年を送ったか、想像できるような気がします。

福井県で二つだけ国宝に指定されている建物が、この寺の本堂と三重塔です。建てられたのは鎌倉時代、元寇の少し前のことだそうです。理不尽な外国からの侵略に、戦わなければならなかった武士の願ったのは、勝利なのか、手柄をあげることなのか、生き残ることなのか。この寺は、静謐な中にたたずんでいます。

海のある奈良と言われる小浜ですが、一昨年公演させていただいた羽賀寺、そしてこの明通寺にも、海の匂いは感じられません。
羽賀寺は716年(霊亀2年)女帝元正天皇の勅願により行基が開き、1447年(文安4年)後花園天皇の命により阿部康季が再建しました。長い木立の参道を登りつめると重要文化財に指定されている本堂があり、背後には鬱蒼とした山が迫っています。明通寺の本堂、三十塔、羽賀寺の本堂とも山を借景にしているのではなく、山の木々を従えているような雰囲気です。

小浜で食べた、おいしい物二つ。甘めの冷たい出汁に浮かぶ饂飩の上にトンカツがド〜ンと乗っている「とんかつうどん」。鯖寿司ならぬ「焼き鯖寿司」。大変美味でした。


「能登地酒列車&食談義」と言う企画に参加するために、和倉温泉に向かったのは、11月2日のことです。前日の夜に東京を地酒列車と言う特別列車に乗ってやって来た100名ほどの酒飲みと、和倉温泉の旅館「加賀屋」で合流し、能登半島の10カ所ほどの会場に分かれて、ゲストの方たちと共に食談義をするという企画です。
顔見知りの桂都丸師匠と出会い、お久しぶりですという会話をしながら、能登鉄道に乗り込み、約一時間半かけて、僕は能都町にある宇出津駅で下車。能登半島突端の珠洲市に向かう都丸師匠は後三十分かけて終点の蛸島駅まで。
能都会場のゲストに招かれた居酒屋評論家の太田和彦氏と月刊dancyu編集者の里見美香氏と約20名ほどの参加者と共に、まず明日からいよいよ今年の酒造りが始まるという数馬酒造の酒蔵を訪れ、食談義会場となる民宿「かね八」へ。
食談義の後は地元の方も加わって、いざ宴会。数馬酒造の銘酒「竹葉」と、食べきれないほどの魚料理の中には、この土地でとれた鯨の尾の身、みそ焼き、そして鯨のすき焼きも並び、昨夜から飲み続けている参加者の方たちが次々と脱落していく中で、最後までお膳の前に座っておりました。
その後、ゲストの方と私の三人は、宿舎になっている郷土料理民宿「さんなみ」に移動したのですが、真っ暗な海に浮かぶ上弦の月を見ながら露天風呂に入った後、手作り料理でまた飲み始めてしまういやしさは、我ながら浅ましい限りです。
能登半島は古来より「能登杜氏」と称せられる杜氏を多く輩出してきたところで、現在でも77名の能登杜氏が全国各地で活躍しているそうです。
酒は旨い。肴は悪いはずがない。能登空港ができ近くなった首都圏の方に「酒と肴は能登にあり!」ということを体感していただくというのが、今回の企画の目的だそうです。 美しい砂浜や奇勝巌門の海岸線から一歩入れば山里の風景が広がり、縄文時代4000年も栄えた集落や、名刹、古刹、霊山。塗、織り、窯等、集落ごとに異なった風土文化を持つ土地は、いろいろな楽しみ方のできる魅力的な場所かもしれません。
和倉温泉駅には「能登はやさしや土までも」と言う看板が掛かっておりました。


出雲の阿国については、その生年没年、また生まれについても定かではありません。様々な憶測はされますが、当時の公家、西洞院時慶の日記「時慶郷記」に慶長5(1600)年7月1日「近衛殿の屋敷で、ややこ踊りが行われた。一人はクニという踊り子であった。」と言う記述がなされ、他複数の資料が残されています。それらから推測すると、阿国たち10数名の旅芸人が、出雲大社本殿修復の勧進興行のために、諸国を歩き回り、1600年頃には、京都の四条河原で小屋をかけて踊りを披露していたと思われるようです。
また、京都国立博物館所蔵の「阿国歌舞伎図」には、刀を肩に担ぎ、侍の扮装をした阿国の姿が残されています。彼女は、ただ単に踊りを披露したのではなく、女が男の扮装をし、演じて見せた事、常識を外れた姿、傾(かぶ)いた姿が、当時の京の町衆たちの評判となり、この「かぶく」から歌舞伎の名称も生まれたとされています。
時代が豊臣から徳川へと変わっていく中で、生まれた土地を離れ諸国を遍歴した後、京の四条河原に小屋掛けし、都人の熱狂的な支持を集めはしたものの、自分のスタイルを守り通したが為に、人々の支持は、遊女歌舞伎や三味線を使った華やかさに移っていきます。阿国が何を想いながら踊り続けたか、どのような人生を送ったかは全くの不明です。ただ、「出雲の阿国」と言う名前は「歌舞伎」という名称と共に歌舞伎の創始者として残りました。当時の河原者が歴史に名を残すことだけでも、特別なことだと思えます。

慶長8年(1603)、浄土宗の僧侶、袋中上人が、仏教の教えをやさしく唄と踊りで伝えるために、当時都で流行していた念仏踊りを持って沖縄に渡り、土地の民俗芸能と結びついたのが、今踊られる「エイサー」と言われているそうです。阿国の踊った念仏踊りと関係があるでしょうか。

12月に、京都祇園の甲部歌舞練場で行われる太鼓新歌舞伎「阿国・わらう」というものに出演します。
「阿国」という女性を通して、芸について、芸人について、いろいろ考えさせられます。

出雲大社へ「阿国・わらう」の奉納演奏に行った帰りに、境港市の「水木しげる記念館」に立ち寄り、妖怪ワールドを堪能しました。古来の花札のそれぞれの絵に似合った妖怪をデザインしたカードゲーム「妖怪花遊び」と、鬼太郎、ネズミ男のてぬぐいを買い求め、境港駅から水木しげる記念館まで続く「水木しげるロード」で妖怪スタンプを集め、妖怪博士の称号と記念シールを頂きました。
その途中で買い求めた「ぬれおかき」、大変美味でした。
久しぶりに観光した気分です。


京都は今、紅葉の観光シーズンです。鴨川にユリカモメもやって来ました。もうすぐ師走です。まだ一年の12分の1が残っているのに、「今年の一年は?」と思ってしまいます。ほとんど毎日、テロリストのニュースを聞いた気がしています。日本も例外ではないんでしょうけど、早く平凡な日々が帰ってくることを願っています。 どうぞお体ご自愛下さい。

2003年 霜月  新月の頃