近況報告 2005.12月


10月16日、トルコ、ポーランドへの演奏旅行へ。メンバーは、大月宗明氏(箏)大月一正氏(鼓・箏)三好芫山氏(尺八)真玉和司氏(尺八)横澤和也氏(石笛・横笛)片山旭星(琵琶)他、箏・尺八13人。トルコには通訳として、岡山在住のアイドウン・オズベッキが付き合ってくれました。10時30分関空発、11時間半かけて中継地のフランクフルトへ。7時間の長いトランジットの後、3時間半かけて、イスタンブールヘ。着いたのは現地時間の17日午前2時。長い旅でした。

99%イスラム教との国トルコは、ちょうどラマダン(イスラムの教えとして日の出から日の入りまで食べ物、飲み物を絶って一日最低5回はコーランを唱え我慢することを学ぶ)の時期。まず驚いたのは早朝6時前ラマダンを始めるエーザ(お祈りをしましょうという呼びかけ)の大音響でした。
この日、マルマラ海西側を6時間かけてバスで南下、フェリーで30分渡って着いたのが港町チャナッカレ市。港のそばに映画「トロイ」で実際に使った木馬が置かれてありました。(チャナッカレ大学日本語科の教授が迎えてくれたのですが、名前を忘れました。日本人の年輩の女性で、オズベッキの恩師です)
18日エーゲ海を見下ろす高台にあるチャナッカレ大学のホールでの公演。トルコの楽器のネイというたて笛の奏者アーソイ氏が共演してくれました。
この夜、オズベッキに連れられて場末の飲み屋へ。リンゴ味の水煙草とラク(ギリシャのウーゾのような酒)をおごってもらいました。

そして、この地は第一次世界大戦の激戦の地。ロシアの南下政策に抵抗してドイツ、オーストリアと同盟を結んだオスマン・トルコは、1915年3月18日英仏連合艦隊にニュージーランド、オーストラリア、インドなどを加えた上陸部隊と開戦。戦いは8ヶ月半に及び連合国側の敗退で幕を閉じましたが、双方50万の兵員のうち半数以上が犠牲になり、特にトルコ側は、そのほとんどが20歳代の若者たちだったそうです。この戦いでトルコ軍を勝利に導いたムスタファ・ケマルは一躍英雄となり、後にトルコ共和国建国の父となりました。彼の残した言葉に「旅人よ、止まれ。今踏んでいるこの土をただの土だと思ってはいけない。この土地の戦争で死んだ人のことを思い出しなさい。この土を握ったら戦士の血が土に戻る。」「この土地で死んだ人はこの国の人になります。涙をこぼさないでください。彼らも我々の息子です。」チャナッカレ大学の正式名称は「国立チャナッカレ3月18日大学」です。

19日トロイの遺跡を観光の後イスタンブールへ。トルコはEUに加盟しようとしていて、その条件の一つが主要道路は3車線にしろということだそうで、今トルコは道路工事ラッシュです。そして、イラクとの石油パイプラインが壊れたため、今はアメリカから石油を買っているためにガソリン価格が3倍に値上がりしたそうです。それでも1千万都市のイスタンブールは大渋滞でした。
20日ミルマシナン芸術大学で公演を終え、その夜はベリーダンス見学。前総領事夫人、オズベッキとトルコ最後の夜をホテルで宴会。イスラム教の国だけあってワインは高い。それでも日本と同じか少し安いくらいでしょうが。酸化防止剤が入ってないだけありがたい。コンビニで売ってくれているのも感謝。
トルコ料理は世界3大料理だそうだけど、実感なかったです。
声をかけられたら気をつけろと言われていたのですが、彼らは気楽に肩をたたいて、声をかけて通り過ぎていきました。
モスクの塔がそびえ、町並みはヨーロッパぽいですが住んでいる人たちをみるとアジアなんだよなあという気がします。


21日90%カトリック教徒の国ポーランドへ。ポーランド・日本友好協会が面倒をみてくれました。会長は極真空手歴12年、この10月に23歳になった大学生マレック・ベンベネック氏です。通訳で岡山在住のマレック・ジェッペキという二人のマレックが旅につき合ってくれました。ここから古澤侑峯氏(地唄舞)以下、箏・尺八8名追加。

私達を迎えたポーランドは日本で言う晩秋の季節でした。黄色く色づいた街路樹が色づいた木の葉を散らし、黄色い街灯が落ち着いた雰囲気を感じさせてくれます。

ワルシャワで一夜を過ごした後、22日ショパンの生家とその周りに広がる美しい森を見学の後、ウッジ市へ。人文科学センターで日本学の教鞭を執る吉田教授親子が迎えてくれました。公演の後のレセプションで、センターの学長からウヲッカの飲み方(ウヲッカは、ショットグラスで一気飲みする。チェイサーはフレッシュジュース。あてはニシンの酢漬けが最高)を教わり、ツアーの共にとウヲッカを二本いただきました。

23日ウッジを離れ、クラクフの街を素通りして地下に教会まであるという世界遺産のビェリチカ地底岩塩採掘抗跡を見学した後、ポーランドの南東にあるウクライナとの国境の町プシェミシルへ。迎えてくれたのは日本文化センターを立ち上げて12年になるイガさんとその下でボランティアで活動している3人のすがすがしい日本の若者でした。冬には零下20度にもなる人口7万人のこの街で日本語を教えることで得る収入で生活を支え、地道な交流を続けています。イガさんの高校生の娘が荒城の月を歌って歓迎してくれました。

24日この街での公演に先駆けて、ウクライナとの国境のあるタタルスキの丘へ。国境には50センチ四方くらいの白い石がおかれ、ポーランドとウクライナを示す2メートルくらいのポールがたっていました。ポーランドがEUに加盟したことで国境の警備が厳しくなったとのこと。ウクライナ側には延々と鉄条網の柵が続いていました。国境警備センターには自動小銃がずらっと並び、赤外線装置を備えた車や、スティーブマックインが映画「大脱走」のエンディングで乗っていたようなバイクが用意されていて、「必要ですか」の質問に「時々」と答えてくれました。

25日隣町のヤロスワフの公演を終え、26日は一路北へ。途中ルブリンの近くにあるマイダネク強制収容所後を見学。アウシュヴィッツより先に開設され規模も大きいとのこと。ナチス・ドイツに強制的に連れて来られ、過酷な労働を強いられたうえに命を奪われた約20万人の中には、ユダヤ人、ポーランド人、ヨーロッパ各地の市民に加え中国人も3人含まれていました。ここで行われたことを知ることは、勇気と覚悟がいるというほどのことが行われた場所です。

どの辺からか、森の木に白樺やブナが交じるようになりました。

27日ビヤウイストックの会場では会館の職員から3年前に日本人のダンサーが公演したと聞きました。その人が友人の舞踏家竹ノ内敦氏であることを知るのに長い時間がかかってしまいました。

28日オルシティンへ。この地で空手道場を開いている極真空手2段のマレック・ビエックレック氏(彼もマレックです。日本でいう太郎、一郎ではないそうですが)を市長のボディガードと間違ってしまいました。本当のところは、極真空手の後輩のために力を貸してくれていたのです。この地で日本語を教えている泉氏に会いました。吉田教授と同じく奥さんがポーランド人です。青い瞳のポーランド女性は実に魅力的です。時々化け物のように足の長い人もいますが。

29日マルボルク城の倉庫のようなところで公演の後、この夜の宿舎になっている救急救命センターの合宿所へ。ここで講習を受けた人は、その証としてハートマークの入ったTシャツ、バッジをもらい、その資格を得ます。ベンベネック氏も3度講習を受けたそうです。これから約2年かけてポーランドすべての学校の先生に受けてもらい、授業の一環として学生に学ばせるとも聞きました。この施設は、あるラジオ番組が毎年一つの目的のために募金を集め、集まったお金を基金として運営されているそうで、昨年は、今後生まれてくるすべての新生児に難聴かどうか耳の検査をするために使われたとのこと。何でも売って運営費の足しにするというので手拭いを寄贈。満天の星の下で、木の枝にウインナーを刺してたき火で焼くというポーランド風バーベキュウと薬草入りホットワインが美味でした。

そして30日再びワルシャワへ。今回のツアーで最後になったポーランドラジオ放送局コンサートホールでの公演は、先に書いたラジオ番組に流すための録音も含めてというものでした。

因みに、この国で飲みましょうと言うゼスチャーは、日本で言うところの「首になりました」のポーズで、首を手の側面でたたくというものです。ほとんど毎日ベンベネックが「センセイ、コンヤモコレネ、イッキネ」と言って誘ってくれ、僕は「はい、もちろんこれね。一気は無しよ」と答えていたのですが、この夜も最後だからどんぐりウヲッカを飲みましょうということで宴会。集まるメンバーは両マレック氏に古澤氏、横澤夫妻(旦那は演奏に影響するからということで飲みません。飲むのは妻だけです)といったところでした。僕はこの夜酔っぱらってしまいました。
翌31日、空港での別れには、ベンベネック氏とほおずりまでして「また会おう」と約束しました。本当にすてきな青年です。ポーランドに興味のある方は紹介しますのでご連絡ください。

この国の人たちは、朝6時か7時頃から仕事を始め3時頃終わります。そして豪華な昼食を。夜は軽くだそうです。
「森へ行きましょう」という曲は4分の3拍子ではなく8分の6拍子でした。
ジャガイモを主食のようによく食べます。
豚の煮込料理が美味でした。川魚のフライも全く臭みがありませんでした。
ビールが安く飲めるのでバーではビールかウヲッカ。ズブロッカは甘いので女性の飲み物だそうです。
ワルシャワでは路面電車、2両連結バスが走り、ウッジの街にはトロリーバスが走っていました。
国のほとんどが第2次世界大戦で焼けたと聞いていましたが、それでも古い建物はあちらこちらに残っています。それらに合わせて街造りがされていて、どこへ行っても町並みがきれいです。
美しい大地と呼ぶのにふさわしいこの土地とそこに住むシャイで平和的な人たちを、大好きになりました。

公演旅行を終えて約一ヶ月以上がすぎてしまいました。日々の暮らしに追われ、記憶はだんだん薄れていく中で、忘れたくない思い出を作れた旅が出来たことは幸せなことだと思っています。

今日、京都は雪が降りました。比叡山は40Bほど積もったみたいです。
紅葉も終わりかけてきました。
今年一年を振り返ることは、来年のことを考えることだと聞きましたが、大きな病気も事故もなく、ただただ平凡に過ごせたことに感謝です。
ここにきて、不幸な事件も続いていますが、出来得れば心に少しのゆとりを持って、穏やかに過ごせる年の瀬でありますように。
少し早いかもしれませんが、どうぞ良いお年を。

2005年 師走 上弦の頃