近況報告 2006.6月


静かな大原の田園風景から少し山あいに入った所に寂光院はあります。縁起によれば山号は清香山、寺号は玉泉寺。この寺は天台宗の尼寺で、推古2(594)年、聖徳太子が御父用明天皇の菩提を弔うため建立されたとあります。本尊の六万体地蔵尊は平成12年5月放火に遭い本堂と共に全焼しましたが、昨年6月5年ぶりに以前の姿のまま復元され、再建された本堂に5色の糸を手に安置されています。
私が以前この寺を訪れたのは平成8年1月、今回10年ぶりの事です。

壇ノ浦の合戦で平家が滅亡した後、囚われて都に入った建礼門院は、京都円山の長楽寺で髪をおろされ、その年(文治元年1185)の秋、平治の乱で源義朝方に誅せられた藤原信西の息女阿波内侍と、平重衡の妻であった大納言佐と共に大原の寂光院に入ります。
平家物語の最後を飾る「灌頂の巻」は壇ノ浦以降の建礼門院にかかわる物語です。

後白河法皇が大原を訪れたのは、翌年の文治2年、葵祭も終った初夏の頃です。
「中島の松にかかれる藤波のうす紫にさける色」と書かれた樹齢千年の姫小松は火災によって痛みが激しくなり、16年の夏枯死しましたが、「池水に 汀の桜 散りしきて 波の花こそ さかりなりけれ」と詠われた本堂前の庭園は、当時の姿を留めています。
建礼門院は、故高倉天皇の中宮、後白河法皇は高倉天皇の父、安徳天皇は孫に当たります。忍びで訪れた深山辺の一庵で二人は語り合われます。そして、門院がその生涯に於いて六道(天上・人間・餓鬼・修羅・地獄・畜生)を眼前に見られた事に、涙を流されます。

その後建礼門院は阿波内侍、大納言佐の局と共に、平家一門と我が子安徳天皇の菩提を弔いながら終生をこの地で過ごされ、建久2(1191)年2月36年の生涯を終られ、残された尼たちも折々の仏事を営みながら、「龍女が正覚の跡をおひ」韋堤希夫人のように、みな極楽浄土への往生をとげた事を伝えてこの「灌頂の巻」は終ります。

灌頂とは、本来、頭頂に水を濯ぎかける密教の仏法儀式で、仏教の信者に仏縁を結ばせる結縁灌頂、修業を積んだ仏弟子に阿闍梨の位を証する伝法灌頂などがあるそうですが、中世になって芸能伝授のうえで、奥義・秘伝を授けることを灌頂というようになったそうです。

18回も続けさせて頂いている「沙羅の宴」ですが、今回は、壇ノ浦の合戦の模様、そして初めて大原御幸を聴いていただきます。
お暇がありましたら、どうぞ御付き合い下さい。

日照時間の少なかった5月も終わり、はや6月。またワールドカップの季節です。あれから4年も経ったのかという心境です。90分のサッカーの競技の中で、1選手がボールに触る時間は1分も無いそうです。それだけ瞬間の判断を求められるということでしょうか。
私は凡夫の愛国者ですから、勝利を願って応援させていただきます。
沙羅の宴の6月18日は日本がクロアチアと試合をする日なのですが、試合開始が午後10時ですから問題はないでしょう。

梅雨を迎えます。
「サムサノナツ」にならないことを願ってます。
どうぞお体ご自愛ください。

2006年 水無月 上弦の頃