近況報告 2009.10月


「雨月物語」は江戸時代中期、安永5年(1776)上方で出版されました。
作者は「剪枝畸人(剪指奇人)」(せんしきじん)。上田秋成であると解ったのは、彼の死後のことだそうです。
上田秋成は、享保19年(1734)大阪曾根崎で私生児として生まれました。5歳の時、天然痘を患い、命は取り留めたものの、右手中指を失い、左人さし指も短くなってしまいます。「剪」は植木の剪定の「剪」、「剪枝」は枝を切るという意味であり、自分の指のことを自嘲的にとらえたといわれています。
幼くして商家の養子となった秋成は、放蕩無頼の浮浪子(のらもの)的生活を送りながらも、俳諧への興味を契機に文人への道を歩み始めます。中国文学に接し、国学を学び、医術を修め、国史を説き、歌を詠み、煎茶を嗜み、自らを曲げぬ合理主義に根差して生涯を送りました。
文化6年(1809)京都で没。享年76歳。

「雨月物語」の名前の由来は、序文にある「雨は晴れて月は朦朧の夜」に由来します。
内容は、「白峰」「菊花の契」「浅茅が宿」「夢応の鯉魚」「仏法僧」「吉備津の釜」「蛇性の淫」「青頭巾」「貧福論」の短編9編。
中国の水滸伝などに代表される白話(口語)小説などや、和漢のあらゆる作品から多くの題材を得たといわれていますが、すべて「怪異」を扱っている点で、怪異小説の元祖といえるのでしょうか。

その中から「菊花の契」と「仏法僧」の2編に森敬典氏が詩を作ってくれました。
10月19日から11月25日まで天理図書館で開催される『会館79周年記念展「秋成」〜上田秋成没後200周年によせて』の一環として10月25日(日)天理図書館2階講堂で演奏させていただきます。
今までに、「白峰」を素語りしたことはあります。
今回、どうなりますことやら。


今年の夏のことです
皆既日食を見てきました。
兵庫県立大学が主催する、平成21年度兵庫県立大学公開講座「日食観測アカデミック・ツールズム・プログラム」に参加させていただき、日本初の大型豪華客船という「ふじ丸」に乗って、日食と太陽についての3時間の講義を受け、7月22日北硫黄島近海で6分39秒の皆既日食を体験いたしました。

ダイヤモンドリングとはよく言ったもので、皆既日食の始めと終わりに、デコボコした月の谷間から最後に残った太陽の光が、それこそ後光のようにピカーッと輝きました。
皆既の間、すじ雲が多かったせいで、太陽の光が雲に反射して、普段太陽の光で隠されている冬の星座までは見ることができなかったのですが、黄昏時のような暗さの中、一等星位は夏の夜の川風のようなヒヤッとした空気の中で見ることができました。

日食病というのがあるそうです。
分かるような気がします。
来年の7月11日、イースター島で見ることができるそうです。マチュピチュ観光付きで4〜50万のツアーと聞いたような聞かなかったような。
高いと思うかやすいと思うかは個人差ですねえ。


1609年8月25日、ガリレオ・ガリレイは自作の望遠鏡を使ってベネチアの議員を対象に、世界初ともいえる天体観望会を実施しました。今年はそれから400年になるということで、国際天文学連合がユネスコに働きかけ、国連で決議された国際天文年だそうです。
観測経緯を詳しく書き残し、その意味するところを科学的に分析するという実証的な探求方法を確立したガリレイの最初の観測の対象は月でした。「異界の報告」には「地上の観測はさておき、私は天空を観測した。最初に月を見たが、すぐ近く、地球半径の2倍くらいしか離れていないようだった。そののち、法外な喜びにあふれる心で、多くの星や惑星をたびたび観測した。」と記されています。
このとき使った望遠鏡は30倍のものだったそうです。月面が鏡のようなつるつるの球体ではなく地球と同じように山や谷があり、デコボコの状態であることを明らかにしたのは画期的なことなのでしょうが、同時にこのときから、月がウサギやカニの住むところではなく科学の対象になったのでしょうか。


新型インフルエンザが猛威をふるっています。
春にはあれだけ皆がしていたマスクを、今ほとんど見かけないのが不思議といえば不思議です。取りあえず手洗いとうがいだけはと思って気をつけてはいるのですが、なぜ若い人の方が罹りやすいのでしょうか。
若い人たちには、新型インフルエンザに罹りやすい何かがあるのでしょうか。それとも、年をとった者には、若者には無い免疫があるのでしょうか。それが分かれば苦労はないのですが、まあ、気をつけましょう。


秋です。
「白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒は静かに飲むべかりけり」です。
紅葉の便りも聞こえてきます。
楽しみたいものです。

どうぞ御自愛ください。

2009年 神無月 下弦の頃