近況報告 2014.10月


 9月の半ば、彦根の友人に案内されて、井伊直弼が不遇の時代を過ごした「埋木舎」(うもれぎのや)を案内してもらいました。そこで、係りの方から、説明していただいた事、思うことです。



 井伊直弼は、文化15年(1815年)1月29日、彦根藩11代藩主直中の14番目の男子として生まれました。幼名、鉄之助、ついで鉄三郎と名乗ります。

  文政10年(1827年)直弼13歳の時より27歳まで、清涼寺21世であり、禅の大家の道鳴について禅を学び始め、続いて師虔禅師、仙英禅師に師事し奥義を習得します。

 また、文政12年(1829年)直弼15歳の頃から、藩校稽古館で、弓、剣槍、居合を学び、茶の湯(石州流)、詠歌も志します。

 天保2年(1831年)父直中死去のため、井伊家の直系以外は城を出るべしというしきたりにより、年三百俵を給され、北の館に移ります。その館で「世の中をよそに見つつも埋もれ木の埋もれておらむ心なき身は」と詠じて「埋木舎」と名付けました。

 その館の物置を改造して茶室を作ます。茶室に必要な躙り口を設けれなかったため、縁側を躙り口として工夫した。そこで、安政4年(1857年)31歳の時、「茶湯一會集」を著します。
 その内容には、「一期一会」、一回一回は同じ一服の茶であっても、人生の流れにおいて、主人も客も過去にも未来にも同じ時ではあり得ない一瞬である。主人は万事に心を配り、一服の茶にもいささかの粗末なく、実意を持っておもてなしせよ。
 「独座観念」客人を心より見送った後も「余情残心」にて取片付けを急がず、今日の「一期一会」に感謝し、炉前に独座し一服茶をたてる、と書かれています。

 その直弼が、弘化3年(1846年)、第14代藩主で兄の直亮の世子であった井伊直元(直中の11男)が死去したため、兄の養子という形で彦根藩の後継者に決定し、嘉永3年(1850年)11月21日、直亮の死去を受け家督を継いで第15代藩主となります。36歳の時です。そして、安政5年(1858年)4月、44歳で大老に就任します。

 彼が大老としてまず為すべき事は、日米修好通商条約の扱い、将軍の継承問題でした。
 前例のない課題の重さに当惑し、京都朝廷が態度を決めかねるなか、6月19日、天皇の勅許を得ぬまま、日米修好通商条約を調印、また、水戸の徳川斉昭を筆頭とする一橋派が推す一橋慶喜を退け、徳川家茂を第14代将軍と決定します。

 すでに、下田、函館を開港し、英国、ロシア、フランス、オランダと和親条約を結ぶなか、開国は必然の流れでした。しかし、これに反対する朝廷を中心とした尊王攘夷派、加えて水戸一派の反動を押さえるため、安政の大獄が行われます。死刑者8名、遠島、追放など有罪判決者70名、この他獄中で自殺、病死したもの多数という事実は、いかなる理由があろうとも、正当化できることではありません。
 この頃、条約を結ぶということが、どんなに重要で難解な問題であったかは想像できます。国家の方針について、直弼と水戸斉昭は正面から対立し、自分の理想を描きます。立場の違いこそあれ、この国の将来について現状を憂い、国が一つになってこの局面に当たらなければならないという思いは、同じだったはずです。しかし、妥協点が見いだせないまま、二人の思惑を外れた人たちが過激な行動を起こし、収拾のつかない方向に動いてしまったとも言えるのではないでしょうか。

 おもてなしの心を体感していた彼が、権力者に成り下がったのか、それとも馬謖を斬る思いであったのか、私は結論は出せませんでした。

 安政7年(1860年)正月、直弼は彦根藩のお抱え絵師に自分の肖像画を描かせます。そして、その余白に
「あうにの海磯うつ波のいく度か 御代にこころをくだきぬるかな」と記します。
2月、「春浅み野中の清水氷いて 底の心を汲む人ぞなき」
3月、「咲きかけしたけき心の花ふさは ちりてぞいとど香の匂ひぬる」
どこかで自分の死を予感していたところがあるのではないでしょうか。
3月3日、桜田門外の変。享年46歳。
3月18日、万延と改元されます。

 



10月19日、桜田門外の変を歌った「井伊大老」、そして日蓮上人の「龍ノ口」の法難を演奏します。 お暇がありましたら、お付き合いください。



虫の音を風流と聞く吟醸酒    



 

2014年 神無月