近況報告 2015.1月


 肥後琵琶は九州に根付いた盲僧琵琶の一種で、その歴史は1674年(延宝2年)京都の船橋検校が、肥後藩主細川候に召されて熊本に行き、盲僧達に浄瑠璃を教えたのが始まりとされています。

 そのため、他の盲僧琵琶の演目が宗教行事に限られるのに対して、肥後琵琶は、説教節といわれる「小栗判官」や「俊徳丸」、九州に題材を取った「菊池くずれ」や「柳川騒動」、チャリと呼ばれる滑稽物、荒神祓いなどの御祓い、ワタマシと呼ばれる新築の行事など、幅広い演目を語ってきました。

 私が、熊本県南関町に住む肥後琵琶の奏者である山鹿良之を知ったのは、1990年のことです。それから、師が亡くなる96年までお付き合いさせていただきました。

 山鹿良之(芸名、教演)師は、明治34年(1901年)熊本県玉名郡大原村(現、南関町)の農家に生まれ、4歳で左目を失明、22歳の時、天草の座頭、江崎初太郎(芸名、教節)について琵琶語りを習得。以来亡くなるまで、琵琶一筋に生きてこられました。

 私が名乗っている「玉川教海」と言う名前は、山鹿良之を親子二代にわたってお世話されてきた、熊本県山鹿市の木村理郎氏から、2002年山鹿良之の七回忌の時に譲っていただいた名前です。

 92〜94年の三年間、熊本市民会館が開いてくれた肥後琵琶再生事業では、8名の方が参加され、4名の方が最後まで続けてくれました。その時、習われる方が練習しやすいように、私が使っていた歌の歌詞を整理して、テキストのようなものを作りました。肥後琵琶は盲人が演奏していたものですから、歌詞のテキストというものがありません。その場その場でストーリーテラーの様に即興で演奏していたものに、ある程度の形を作ったということで、私が演奏するものは、厳密にいえばもともとの肥後琵琶とは異なったものだと思っています。ただ、芸の雰囲気だけは伝えられるかなとも思っています。

 今回、去年から続けてきた「琵琶本語り」で、肥後琵琶の代表的な曲である「都合戦筑紫下り」を取り上げます。これは、肥後琵琶再生事業の時、熊本の放送作家、宮崎真由美氏が、昭和49年田中籐後師が演奏したものを元に校訂し、それを私が一部手直ししたものです。

 昭和30〜40年代、肥後琵琶はこの地域の人々の集まりの中で演奏されてきました。その雰囲気だけでも感じていただけたらと思っています。



風花の舞う月の夜に友来る    



 

2015年 睦月上弦の頃