産経新聞より

2001年7月4日
産経新聞夕刊より



芸/RON


 “絶滅寸前”の語り芸・肥後琵琶継承


亡き師匠・山鹿に芸の魂見る

 開演前、無き師匠の形見とも言える琵琶を見せてもらった。
 桑の木で作られたそれを手に持つと、思ったより軽い。約1キロと聞いたが、四弦のその楽器には一人の男の無骨な年輪が刻まれている。持ち主は、五年前、九十六歳で亡くなった山鹿良之。肥後琵琶の語り一筋に、大正、昭和、平成の時代を生き抜いた。

  「月にむら雲 花に風
  散りてはかなき世の習い・・・」
  肥後琵琶の説教節「石童丸」。
 平安末期、出家した父の消息を訪ねる息子の物語。ステージに響く艶のある片山の声の背後に、ふと山鹿がいるような気がした。
 それにしても、筑前琵琶奏者の片山がなぜ、肥後琵琶を手にしているのか。まず、その辺りから語ってもらおうと思う。


 「楽器の空洞の部分が大きく、胴(表の板)が薄い。これも音量を高める工夫なんですね」
 肥後琵琶の特徴を、片山はこう説明するが、これは伝承形態と深く関わっているらしい。
 歌詞を謡う筑前琵琶や薩摩琵琶に対し、肥後琵琶は古浄瑠璃を思わせる長編の語りが中心。「ワタマシ」と呼ばれる新築儀礼や竈祓い(竈払い)など、民間の宗教儀礼と分かち難く伝えられてきた。門付け(街頭演奏)が多いため、ボリュームを出す必要があり、持ち運びできるように小ぶりにできている。もっとも門付けは東京五輪のころまでには、街から消えてしまったという。
 明治三十四年、熊本に生まれた山鹿は四歳で左目を失明。二十二歳から肥後琵琶を始め、すべてを語れば数百時間を要する五十種以上の演目を口頭で収得した。最後の琵琶法師といわれるのも、全七段、六時間以上に及ぶ「小栗判官」を語り通すことができる唯一の奏者だったからだ。
 その“怪老”の門をすでに筑前琵琶で名を成していた片山がたたいた。三十五歳のときである。


 その数年前、テープで山鹿の声を初めて聞いていた。腹の底から絞り出すしわがれた野太い声・・・。「鳥肌が立ちました。どんな人生を歩めば、こんな語りができるのか。ただ人間的な興味から、どうしても会いたくなったんです」  このとき、初対面の片山に言い放った言葉が「筑前琵琶は嫌いじゃ」。だが好きな酒を持参し、あっさり入門を許された。
 それから四年。二ヶ月に一度は一人暮らしの山鹿を訪ね、飯一合五勺と酒三合という師匠の食事をつくり、寝起きをともにする生活を続けた。芸を学ぶのは、いつもその合間だが、これが一筋縄ではいかなかった。
 「とにかく師匠の気が向いたときしか聴けない。夏なら昼寝があるし、相撲中継が始まると、もうダメなんですね」
 山鹿の芸はすべて口承によるものだから、テキストと呼べる書物はいっさいない。だから、語りが突然始まると、録音テープのスイッチを入れ、それを自分で書き起こすのだ。こうして片山は「石童丸」「道成寺」「小野小町」の三つの肥後の語りを習得した。


 「見かけで人気はとれん。芸の力を出して、やるだけやれ」
 これが山鹿の口癖だった。
 「小野小町」を習ったとき、「そんな色気のない演奏はするな」と怒られた。「色気ってなんですか」と片山が聞くと、「分からん・・・」。
 「洗練された筑前と違い、肥後は講釈師が合いの手にたたく扇子のようなもの。繊細な音は求めていないが、師匠と一緒に酒を飲みながら聞く話が、そのまま語り芸になっているんですよ」
 肥後琵琶の代名詞のような存在だった山鹿は亡くなったが、その芸は、“絶滅寸前”で片山という後継者を得た。
 「芸人の魂を見せてもらった気がします。空気のつかみ方というのか・・・。筑前にも、その語りを生かしたい」



飽きることがない音色

 片山は今年四十六歳。芸の道をきわめた達人を紹介するこのシリーズでは、大いに若い。自ら「まだ道半ばですかね」と語るが、登場願ったのは、筑前琵琶を本業としながらも、肥後琵琶を極めた故山鹿良之の唯一の後継者だからだ。
 小学生のころ、ピアノを習ったのが、音楽との最初の出会い。中学時代はベンチャーズやビートルズに熱中し、ギターやサックスに明け暮れた。そんな片山だが、二十二歳で開眼して以来、二十四年間、弾き続けてきた琵琶だけは「人をひきつける優しさと、時に人を拒絶するような激しさがあり、その音色には、いまだ飽きることがない」と語る。ただ「芸はその人一代のもの。継承して保存するものではない」というのが信念だといい、おそらく片山の両肩に鎮座して弟子の芸を見守る亡き師匠と、これからどんな“対話”をし、自らの芸を磨き上げていくのか。興味が尽きない。

(今西富幸)

2001年7月4日/産経新聞 夕刊より