●1992年6月27日 京都長岡天満宮社務所 「九州に残る琵琶法師の語り」のパンフレットより |
解説・紹介 (兵藤裕巳 埼玉大学助教授) ■九州の座頭琵琶 シルクロードを経由して日本に渡来した琵琶には、大別してふたつの系統があったようだ。ひとつは、遣唐使などによって畿内中央に公式に伝えられた雅楽琵琶。もうひとつは、大陸から直接九州地方に渡来したとみられる琵琶法師の琵琶、座頭琵琶だ。
琵琶法師の琵琶は、携帯に便利なように、雅楽琵琶よりもひとまわりこぶりにできている。棹(さお)のにぎりが太く、柱(フレット)の数も多いという独特の作りだが、「平家物語」などの様々な物語を語り、祝言や竈(かまど)祓いなどの宗教儀礼にたずさわった中世の座頭=琵琶法師は、しかし十六世紀末頃から、しだいに新しい三味線音楽に転向していったようだ。東北地方の奥浄瑠璃、有名な津軽三味線、北陸の五色軍談などは、どれも座頭三味線の系統である。近世の語り物音楽を代表する浄瑠璃・文楽も、もとは座頭の三味線から出発した。
時代の流行が琵琶から三味線へ移行する中で、しかし九州地方だけは、座頭の琵琶が江戸時代以後も行われた。理由のひとつは、九州の座頭琵琶が、竈祓い・わたまし(新築の祝言)等の宗教神事と密接に結びついて存在したからだろう。法具としての琵琶のあり方が、三味線との交替を困難にしたのだが、芸能者が同時に宗教者でもあるという中世的な芸能伝承のあり方は、現在の山鹿良之師(91歳)の琵琶のあり方にもうかがえる。
そんな山鹿さんの琵琶語りを何とか次の時代に伝えられたら、と思っている。もちろん山鹿さんの芸は、その90年の人生と不可分に作られた。私達が、山鹿さんの芸を継承するなどということはおよそ不可能だが、せめて山鹿さんの琵琶の奏法、基本的な出し物のいくつかでも伝えられたらと思っている。片山旭星氏は、そのような私達の願いをかなえてくれる唯一の琵琶奏者である。 片山旭星氏は昭和30年(1955)愛媛県生まれ。大学卒業後、筑前琵琶を菅旭香師に入門。現在、大阪・神戸・京都を中心に演奏活動を続ける筑前琵琶奏者だが、数年前から熊本県の山鹿良之氏宅をたずね、寝食をともにしながら、琵琶の奏法、弾き語りなどを修行。筑前琵琶でつちかったセンスと勘のよさで、山鹿氏の出し物「小野小町」・「道成寺」などを驚くべき早さで習得している。琵琶の奏法の確かさは、すでに師匠の山鹿氏も太鼓判を押している。とはいっても、もともと盲人の芸だけに、習得方法にはかなり困難なものがあるようだ。いいしれぬ苦労が多いことと思う。なんとか片山氏の努力に報いるような公演機会を数多く作りたい。関係各位のご協力・ご尽力をお願いするしだいです。 |
●1996年10月26日 京都法然院 「肥後座頭琵琶演奏会」のパンフレットより |
僕が山鹿良之師の存在を知ったのは、九州の友人からもらった「大江山」のテープが最初でした。ハリのある野太い声で響く語りの説得力、琵琶の音は緊張感のある力強い音でした。
それから数年たった1990年の夏、九州を訪れた際、熊本県南関町にある山鹿師のお宅に電話を入れ、一度お会いしたい旨伝えたところ、近くのふるさと会館で録音と取材があるので、そこで会おうということにことになりました。お酒を持って行ったのをとても喜んでくれ、取材が終わった後、僕と友人のために一曲演奏し、30分ほど話しをしてくれました。演奏はとても素晴しいもので、それが会話になると、肥後弁というものが、ほとんど理解できず、日本語は何とむつかしいと思ったものです。
それからしぱらくして、僕はどうしても山鹿師と一緒にお酒が飲みたくて、おみやげの馬さしかめんたいこ、そしてお酒を持って、おしかけ弟子をするようになりました。
静かな山里にある、黒く波打ったタタキの上に一歩足をふみ入れただけで心のなごむ家で、山鹿師の話りを聞かせてもらい、僕の練習したものを聞いてもらいました。
夜、ボンボンと柱時計の響く部屋で、堀ごたつに入って、お酒を飲みながら、いろいろな話しを、笑いながら泣きながら聞かせてくれました。
醤油と塩しか調味料のない台所で僕が作った、山鹿師にとっては味付けの濃い料理を、ガマンして食べてもらいました。
病院へお見舞に行ったとき、「今、琵琶が弾けんので、話りだけでも聞きなさるか。」と言うのを僕が辞退すると、申し訳なさそうにしていました。
特別養護老人ホームに入った時、「ここでは片山さんと酒が飲めん。」と言って家に帰ると言いだし、係の人をこまらせました。僕もこまりました。
「小野小町」を習った時、「色気がない。」と言われました。「道成寺」を習った時、「千両!千両!」と言って手をたたいてくれました。「石童丸」を習った時、「なんで親と子が離れて暮らさないけん。」と言って泣いてました。「鯛の婿入り」を習った時、「わしや手が動かん。」と言ってさびしそうでした。
1901年生まれ。22歳から琵琶を始め、今年の6月24日に亡くなるまでの間、時代の底辺を、芸と人間とともに、土の上を生きてきたと感じるような、太く長い指と、ぶ厚い手を持った人でした。
山鹿師が亡くなる5日前、見舞いに行ったとき、2時間程の間、ずっと飴玉をほうばってました。そして、僕に子供ができたことを喜んでくれました。
僕が山鹿師から習ったのは、端唄の「一花ひらいて」「梅は匂いで(四季)」「ぎにあらたま」「鯛の婿入り」、語り物の「小野小町」「道成寺」「石童丸」以上です。
ある日山鹿師は、「片山さんとわしとは芸人どうしじゃ。」と言ってくれました。僕の一番うれしかった言葉です。
合掌
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