モーツァルト 〜神童から芸術家へ〜 |
1777年、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756- 1791)はマンハイムとパリを巡る旅路にあった。それは、かねてより折り合いが悪かったザルツブルグ大司教に替わる新たな雇い主を求める旅であった。時代はフランス革命前夜。芸術家は未だ専制君主の庇護の下に置かれていた。宮廷に職を求めるというモーツァルトの発想も、この時代にあっては当然のものといえる。
この姿勢に象徴されるように、この頃のモーツァルトは未だ時代の虜である。事実、旅の途上作曲されたフルート四重奏曲第一番も、当時の音楽的流行の影響を多分に受けており、「彼の」という以上に、その時代の音楽である。 結局この求職の旅は失敗に終わった。かつて歳に似合わぬ演奏能力で各地の宮廷を沸かせた神童も、20歳を過ぎれば一介の楽士であり、ザルツブルグの宮廷音楽家の地位に留まらざるを得なかった。しかし、この不遇の時期は、同時にモーツァルトの芸術家としての覚醒が始まる時でもある。オーボエ四重奏曲(1781)の第三楽章には、オーボエと弦楽器が同時に別の拍子で演奏する箇所があるが、過去に類を見ないこのような試みは、モーツァルトが新たな世界を切り拓こうと試行錯誤した跡とみてよい。 その後大司教と決裂したモーツァルトは、ウィーンにおいて貴族階級に仕えないフリーランスの音楽家として活動を始める。市民社会における芸術家の有り様を、いち早く示したのである。同時に彼独自の芸術世界も花開く。例えば、1785年のピアノ四重奏曲第一番はそれまでの室内楽曲のあり方を全く変えてしまった。ピアノは弦楽器を支える通奏低音楽器の役を解かれ、弦楽器に対するソロ楽器として、協奏曲のような活躍を見せるようになる。曲自体も宮廷のBGM的な軽快さに替わって、次世紀を予感させる重厚感とロマンティシズムを得た。 しかし時は18世紀末。市民革命に怯える保守的なウィーン社会には、モーツァルトの先進性を的確に評価することが出来なかった。この曲に関しては、作曲を委嘱した出版社すら商業的成功の可能性を嘆き、以降の契約は破棄された。彼は同時代の聴衆の理解し得ない高みに達してしまったのである。 これ以降、死までの6年間、モーツァルトは自らの名を後世に刻む名曲を数多く生み出している。しかし、その同時代的評価は必ずしも高くなく、彼は時代の無理解と孤独、貧困と病へと追いこまれていった。その苦しみの中で書かれた最晩年(1791)の作品〜例えば「アヴェ・ヴェルム・コルプス」、アダージョとロンド、クラリネット協奏曲、そして「レクイエム」〜は、透明感と影という相反する要素を内包するようになる。それは時代を超越した孤高の天才の悲哀が結晶化したものに他ならないのである。 (by 坂本謙太郎) |