歌と器楽の狭間で… |
歌は音楽の最も基本的な形態である。あらゆる言語には音節・アクセント・イントネーションがあり、それをなぞれば拍子・リズム・音程が生まれる。これらは旋律を形作る基本的な要素だから、言葉があるところには自ずと旋律が発生すると言っても過言ではない。言葉を覚えたばかりの幼児による作詞作曲・自作自演を耳にするのは珍しいことではないが、これは歌うことが人間の極めて自然な営みであることを示している。 これと比べれば,器楽は不自然な音楽の形態と見ることができる。音楽が楽器という器械を介して表現されるということは、表現者たる人間から見れば、音楽表現という目的の前に、器械の操作という理性的な行為が横たわっているということである。この制約はしばしば内発的な音楽表現をも抑制してしまうことがある。 対照的な歌と器楽だが、これらは互いに影響を及ぼし発展している。道具の発明により文明・文化が飛躍したのと同様、楽器は音楽の可能性を大きく拡大させた。例えば、少数の音からなる単純かつ短いモチーフの反復や、音色の異なる楽器による同一の旋律の繰り返しは、洋の東西を問わず音楽の重要な表現方法だが、それは楽器という道具なしには実現し得ない。歌曲の演奏時間がせいぜい数分に留まるのに対して、器楽曲はその数倍から数十倍であることが珍しくない。この点だけを見ても、器械がより複雑な音楽表現を可能にしたことが分かる。また、近世以降西洋では旋法・和声法・対位法が研究され、高度に完成された規範が形作られるが、バッハ(1685-1750)の「平均律クラヴィーア集」や「フーガの技法」を例に引くまでもなく、それは楽器という道具に多くを負っている。 これら器楽の成果は,歌曲の発達にも多大な影響を与える。グレゴリオ聖歌に代表される中世の純朴な歌が、近現代の表現力豊かな歌曲に発達する過程を語るには、器楽の貢献を無視することは出来ない。もっとも、旋律や和声が言葉本来のアクセントやイントネーションに優先するなど、器楽の規範が歌曲を縛るという事態も同時に発生する。 一方、歌は器楽に旋律を提供することで大きく寄与している。シューベルト(1797-1828)には「鱒」「死と乙女」など自作の歌曲の旋律を転用した器楽曲があるが、これらはその好例である。また、モーツァルト(1756-91)やベートーヴェン(1770-1827)も変奏曲の主題として歌曲の旋律を好んで使っている。 産業革命と市民社会の発達は楽器の発展・進化を促した。この好条件の下、歌と器楽の狭間で作曲家達は様々な試行錯誤を重ね、音楽の地平を切り拓いて行く。文明の衝突が新たな歴史を作って来たのと同様、歌と器楽の相関は西洋音楽の発達における重要な刺激のひとつだったのである。 フーゴ・ヴォルフ イタリアのセレナーデ ト長調 ヴォルフ(1860-1903)は決してよく知られた作曲家とは言いがたいが、ドイツ・リートの世界においてはシューベルト、シューマン(1810-56)に並び称されている。作曲法の発達に伴い、歌詞が和声や旋律に従属するものとなっていたことは既述した通りだが、これを根本から覆したのがヴォルフである。すなわち、言葉が本来持つイントネーションやアクセントを忠実に守った歌曲の世界を拓いたのだ。結果として、旋律・和声は複雑で、時として伝統的な規範から逸脱することになるが、それは彼の音楽のもう一つの特徴となっている。 ヴォルフが残した曲のほとんどは歌曲であり、器楽曲はわずか数曲を数えるに過ぎない。詩の言葉をなぞることによって旋律を生み出すというヴォルフの作曲方法を考えれば、これはごく自然だろう。『イタリアのセレナーデ』は、彼の数少ない器楽曲だが、その着想や旋律はアイヒェンドルフ(1788-1857)の詩による自作の歌曲『兵士』に通じており、この曲も歌曲と似通った思考方法によって生まれたことを示している。 利口な馬は、闇の中でも俺を速く、 確実に小さなお城へ連れて行く。 夜ごとお城で迎えてくれる乙女は、 絶世の美人ではないけれども、 あれより気に入る女は他にない。 しかし、その娘が結婚を口にした途端、 俺は馬に飛び乗る。 俺は気ままにいたいからね。 以上が『兵士』の大まかな歌詞である。これは『イタリアのセレナーデ』を理解するための重要な手がかりだ。 本来セレナーデとは、男が女の元に通い、愛を語らう〜これは『兵士』の「俺」の行為に他ならない〜際に演奏される音楽である。この事実を『兵士』からの旋律の転用と考え合わせれば、『イタリアのセレナーデ』が『兵士』の情景を描写したものだと考えても間違いではないだろう。遠くから近づいてくる馬の足音〜愛の歌〜結婚を迫られ逃げ出す兵士〜去っていく馬の様子が鮮やかに浮かび上がってくる。もっとも愛の歌にしては相当風変わりではあるが…。 ヴォルフガング・モーツァルト(ヨハン・ヴェント編) フルート四重奏のための『魔笛』 幼児の自作自演が歌の最もプリミティヴな形態だとすれば、オペラはその対極の最も高度に完成された歌であろう。オペラを作曲することを究極の目標とする作曲家も珍しくなく、18世紀にはオペラでの成功が一流の作曲家の条件ですらあった。 しかし、せっかく作ったオペラも、当時は繰り返し演奏されるものではなかった。19世紀半ばまでのコンサートは基本的に新作発表の場であり、過去の作品を演奏することは二の次だったのだが、オペラではこの傾向が特に強かった。多くの歌手、オーケストラ、舞台装置などを必要とするこの総合芸術を、何度も上演させることは王侯貴族の経済力をもってしても、困難だったのである。 録音媒体のない時代に、気に入ったオペラを気軽に楽しむためには、それを少人数で演奏できる形態に編曲するしかなかった。18世紀半ばから19世紀初頭にかけてのドイツ・オーストリアでは管楽器を中心とする小アンサンブルが広く愛好されていたが、多くのオペラはこれらの器楽合奏のための編曲版を介して流布していった。ウィーン宮廷管楽合奏団のオーボエ奏者兼編曲担当者だったヨハン・ヴェント(1745-1801)が、生涯に『魔笛』をはじめとする50近いオペラを編曲したこともこれを裏付けている。究極の歌曲を聴く手段が器楽だったというパラドックスは興味深い。 ところで、ヴェントによるフルート四重奏のための『魔笛』は原曲上演の翌年1792年に発表されたもので、序曲と18の小曲から成っている。原曲の主だったメロディーは一通り網羅されており、各曲の和声や旋律線など基本構造も保たれている。これは、あらすじを読みながら、オペラの雰囲気を想像しつつ聴くという目的によるものであり、「芸がない」という評価は不当である。むしろ大舞台をわずか四人で再現させる手法の巧みさには目を見張るものがある。 |
〜『魔笛』のあらすじ〜 |
昔、ある国に夜の世界を支配する女王がいた。その娘パミーナ姫は光の世界を治めるザラストロに連れ去られ、夜の女王は悲嘆にくれて過ごしていた。 あるときタミーノという異国の美しい王子が大蛇に追われ、悲鳴を上げながら森の中へ迷い込み(第一曲冒頭)、あわやという所を女王の三人の侍女に救われる(第一曲半ば)。侍女たちが気を失った美男子を名残惜しみつつ去って行く(第一曲後半)と、代わって鳥刺パパゲーノが登場する(第二曲)。戻ってきた侍女たちから誘拐されたパミーナの話を聞かされ、その美しい絵姿に魅せられた王子(第三曲)は、パパゲーノを伴い救出に向かう。旅立つ王子に女王は魔法の笛(魔笛)を授ける。 三人の天使に導かれ、ザラストロの神殿に辿り着いたタミーノは、彼が高徳の司祭であり、邪悪な夜の女王からパミーナを保護していると聞かされる。タミーノは姫の無事を喜び、魔笛を吹く(第七曲)。パミーナと出会い、ザラストロの威厳に心打たれた王子は、光の世界の住人になるべく三つの試練に挑む決意をする。 タミーノの帰りを待つパミーナの元に光の世界の簒奪を目論む女王が忍び込み、「ザラストロを刺せ」と迫る(第十三曲)。彼を尊崇する姫は母の言葉に思い悩む。 一方、タミーノは三人の天使に第一の試練は無言の行だと知らされる(第十五曲)。そこへ悩むパミーナが現れ、呼びかけるが試練に臨む王子は応えようとしない。姫は「彼の愛は消えてしまった」と嘆く(第十六曲)が、後に真実を知ると、母の意に逆らい、王子と共に残る二つの試練に臨む。 試練から脱落し「おいらにも‘いい人’がいればなぁ」とふてくされるパパゲーノ(第十八曲前半)もぴったりの女性と出会い、邪悪な女王は夜の闇と共に消えていく。試練を乗り越え、朝の光に包まれるタミーノとパミーナを讃える大合唱(第十八曲後半)によって物語は大団円を迎える ピョートル・チャイコフスキー 弦楽四重奏曲 第一番 ニ長調 作品11 19世紀初頭にドイツで始まった民族主義運動は、半世紀余りの時を経て、周辺の後進国に浸透していった。19世紀後半以降、チェコではスメタナ(1824-84)やドヴォルジャーク(1841- 1904)が、ノルウェーではグリーグ(1843-1907)が、ロシアではボロディン(1833-87)、バラキレフ(1837-1910)らロシア五人組が民族主義的な作品を次々と発表する。一般的にチャイコフスキー(1840-93)はこれらの作曲家とは区別され、いわゆる国民楽派の作曲家とは見なされない。これは彼がサンクト・ペテルブルグ音楽院で西欧の‘正統な’音楽技法や伝統を学び、作品に反映させているためである。とはいえ、教育が一人の人間を同時代のパラダイムから切り離すことなどできるはずはなく、民族主義的な傾向はチャイコフスキーの作品にも色濃く見て取ることができる。 国民楽派を中心に、この時代の作曲家はしばしば民族伝承を素材とした自国語の歌曲・オペラ・劇付随音楽を作曲している。チャイコフスキーもこの例に漏れず、この分野でオペラ『地方長官』をはじめとする多くの作品を残している。もっともそれは現在、少なくとも我が国や西欧諸国では、ほとんど顧みられることはない。これは、多分にロシア語の歌詞の制約〜意味が解らないどころか、馴染みのない文字のため発音を想像することもできない〜によるところもあるだろうが、より大きな原因は、チャイコフスキーの個性が十分に発揮されていないことであろう。 チャイコフスキーが民族主義的表現によって成功した例はむしろ器楽作品に見出すことができる。彼は生涯を通じて民謡に強い関心を寄せ、その旋律をいくつもの器楽作品に転用している。その例は、最初期に出版されたピアノ曲「ロシア風スケルツォ」から、よく知られた弦楽セレナーデ、交響曲第四番など円熟期の作品まで、数多く見出すことができる。 弦楽四重奏曲第一番は、民謡の転用という点で、チャイコフスキーが最も成功した例であろう。その第二楽章の旋律は「ワーニャは長椅子に座って、コップにラム酒を満たす、満たしもやらずエカチェリーナのことを思う」という歌詞の民謡から採られている。この楽章は‘アンダンテ・カンタービレ’の名で広く知られ、ヴァイオリン独奏・弦楽合奏をはじめ様々な編成に編曲され、広く愛されている。文豪トルストイ(1828-1910)がこの曲を聴きながら涙を流し、後にチャイコフスキーがそれを回想して「あのときほど作曲家として喜び・感動・誇りを抱いたことはない」と記していることからも、この楽章は彼の代表作のひとつと呼ぶに相応しいと言えるだろう。 現代の我々の視点では、チャイコフスキーは典型的な器楽作曲家と映り、一見すると歌曲とは関係が薄かったかのようである。しかし、弦楽四重奏曲第一番をはじめとする彼の代表的な器楽作品も、器楽曲と歌曲の狭間でこそ生まれ得たものなのである。 (by 坂本謙太郎) |