ウィーン的なものとは? 〜時代への想いと演奏スタイルの妙〜 |
ウィーン的なものとは何だろうか? 優雅で気品にあふれた宮廷生活、豪華絢爛な舞踏会、甘くて上品なザッハトルテ・・・。それらは古くて趣のあるヨーロッパ文化の一面だろう。しかし、それだけではあの人間臭い魅力の本質は見えてこない。そこに迫るには、更に実際の暮らしや人々の気質にも目を向けなければならない。そうすることで見えてくる、古き良き時代への憧憬を保ちつつもウィットに富んだ癖のあるきわめて庶民的な姿。その品格と庶民性の見事なバランスこそが、あの憎らしいほどの魅力の源泉なのである。 現在我々の眼に映る「ウィーン的なもの」が完成するのは19世紀後半、ウィーン文化の黄金期と呼ばれる時代である。あの魅力を最もストレートに現わしているものとしてウィンナーワルツがあるが、これはちょうどその全盛期でもある。しかし、気品と癖の均衡の上にある独特の趣の原点を知るためには、更に百年ほど遡らなければならない。 18世紀後半、ヨーロッパでは市民革命の嵐が吹き荒れていたが、それは同時に民による民のための文化が芽生え、西欧社会的な市民生活が始まった時期ともいえる。当時、政治・文化の中心的な存在の一つだったウィーンではそれらが自由自在にうごめいていた。それまでの権力者だけの世の中から、生活面でも文化面でも解き放たれつつあった自由な雰囲気。街にはカフェという社交場が登場し、詩人や歌人が宮廷という箱から飛び出し、広大な自由を求めて歩み始めていた。 彼らは依然形式や家柄といったしがらみの中にあったが、貴族的な贅沢感覚(=庶民にとっては憧れ)を維持しつつも、徐々に感情を発露させていった。洒落た思い入れと絶妙の引き際。自由で天真爛漫でありながら品格を保った姿。遊びと厳格さの妙。その狭間で人間の感情の微妙な襞が、独特の奥ゆかしさを醸し出す。 モーツァルト(1756-1791)とベートーヴェン(1770-1827)もそんな「ウィーン的なもの」の生成過程の初期に登場した芸術家の一人だった。宮廷・貴族に近い世界に身を置きつつ、それまでのお堅い音楽に新しい息吹を吹き込んだモーツァルト。市井に生き、音楽の持つ厳格な形式に普通の人間感覚を巧みに取り込んでいったベートーヴェン。活動の場や志向の違いはあったものの、共にその時代を自由に駆け抜けた若きスターであり、流行作曲家であった。そして新しい聴衆文化にインスピレーションを得ながら、その時代にあてはまる、時には先取りするような音楽を創りあげていった革命児でもあった。だからこそ、創生期〜人間の感情表現が地位や状況を問わずに広がりはじめたこの時代〜ならではの喜びや挑戦の跡が、彼らの音楽には多々見いだされる。 では、その「若きウィーン的なもの」に現代社会の我々はどう対峙すべきなのか? ウィーン風の物真似をしたところで、あの魅力に迫ることはおろか、その音楽に生命は宿ることもない。むしろ、当時の若き作曲家達の感覚に触れる方が早道かもしれない。彼らはその時代感覚の中で曲を作り、披露し、それに対する聴衆の反応をかみしめていた。つまり、生きた音楽、ライブ感覚である。曲本来が持つ味わいを求めつつも、その場・その瞬間に生き続けている曲そのものの躍動を感じ、聴衆と共有すること。それによって、初めて音楽に命が芽生える。さらに気品と生々しくも人懐っこい内面が加われば理想的である。 本日、ウィーンの薫りが皆様に届くことを願いつつ———。 ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト 木管五重奏曲 ハ短調 (弦楽五重奏曲 第2番 K.406の編曲版) この曲は二つの顔を持っている。セレナーデ 第12番「ナハトムジーク」ハ短調 K388(384a)と弦楽五重奏曲第2番ハ短調K406(516b)だ。前者はモーツァルト(1756-1791)が26歳の時に書いた管楽八重奏(オーボエ・クラリネット・ホルン・ファゴット各2本)の為の作品である。その6年後に彼はこの曲を弦楽五重奏に編曲し、自ら新たな命を吹き込んだこの曲は二つの顔を持っている。セレナーデ 第12番「ナハトムジーク」ハ短調 K388(384a)と弦楽五重奏曲第2番ハ短調K406(516b)だ。前者はモーツァルト(1756-1791)が26歳の時に書いた管楽八重奏(オーボエ・クラリネット・ホルン・ファゴット各2本)の為の作品である。その6年後に彼はこの曲を弦楽五重奏に編曲し、自ら新たな命を吹き込んだ。 ただ、事後的にその二曲を並べたとしても、どちらが大元かを論じる必要もないだろう。むしろ曲そのものが奏でられる楽器によってどのように響きを変えていくかを後世の我々が堪能できることに喜びを感じればよいのだと思う。そんなわけで(?)、本日はこの曲を原曲の管楽器の響きと、後に五重奏に濃縮された響きの両方を混ぜるような形としてお届けすることとなった。 ところでこの曲はどんな時代の響きを持っているのだろうか? K388は1782年、K406は1788年の作品。ちょうど「ウィーン的なもの」が息吹き始めた時代である。音楽の世界では古典派様式が確立される一方で、モーツァルトという天才の出現で自由度が一気に高まり始めたタイミングとも言える。 どちらかといえば明るめなモーツァルトの作品群の中、この曲は比較的少数派の短調である。これにはこの時期の彼の創作意欲が、一時的にバロック方面を向いていたという事実背景があるのだが、彼はただ単に短調の雰囲気だけを求めたわけではない。一見陰影が全体を支配しているようにも思えるが、実は曲全体の雰囲気には温かくて優しい響きが混在しており、当時のウィーンの空気とも形容できるような元気な躍動感や透明感が満ちあふれている。そこにモーツァルトの天性のセンスと、転換の時代の息吹を感ぜずにはいられないのである。 第一楽章 Allegro 影のある響きの主題が厳格に流れる中、優美なぬくもりの気配が第二主題として現れる。これはそれまでのバロック音楽や古典音楽の域を超えた何かを感じさせる。柔らかな響きは管楽器の特性により見事なメロディーの流れを生む。 第二楽章 Andante 平和な旋律が広がり続け、そのハーモニーの美しさは管楽器の比類ない温かさとともに音の空間を描き出す。モーツァルトならではの天上の響きである。 第三楽章 Menuetto in Canone シンプルな歩行感のあるメヌエットの中に、古めかしさのあるカノンの手法がとりこまれる。響きと構成に独自のアイデンティティを見いだすことのできる楽章。 第四楽章 Allegro 主題と変奏を軸に、時折柔らかく平和な情景が見え隠れする。短調の響きが信念を強く持って進み、最後は力強く解決していく。 ルードヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン 七重奏曲 変ホ長調 作品20 ベートーヴェン(1770-1827)は、20代前半、青年期にウィーンに住み始めた。若さの勢いで創作技術を磨きつつもウィーンの空気に浸り、まさに世紀が移り変わろうとしていた29歳の頃にこの素晴らしい曲を書きあげた。 時代が大きく動き、音楽が広く市民権を得ようとしていたタイミングで、それはあたかも新しい時代を祝福するかのように底抜けに明るい。また、晴れやかな楽器の組み合わせ(ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、クラリネット、ホルン、ファゴット)によって、きわめて人間的で希望に満ちた壮大な曲に仕上がっている。この曲は発表と同時に大人気を博し、まさに時代にマッチした作品だった。それはベートーヴェンの人生の自由で明るい前半生の集大成というに相応しい。 彼のその後の作風は次の作品である交響曲第一番(作品21)を経て深みを求めていくことになる。 第一楽章 Adagio - Allegro con brio 温かい響きから始まる序奏では、少々の陰を見せながらも基調はあくまでも希望を予感させる光が舞い続ける。やがてえもいわれぬ幸福感に満ちた主題がヴァイオリンとクラリネットでたて続けに疾走しはじめる。その音楽は時折一休みするようなそぶりを見せながらも、次々に全ての楽器を巻き込みながら躍動感に満ちて突き進む。 第二楽章 Adagio cantabile 羽毛で満たされたゆりかごに揺られるように柔らかく幸せに満ちたメロディーが、クラリネットとヴァイオリンによって延々と歌い込まれていく。言葉では言い表せない豊かな音の空間がそこに響き渡る。 第三楽章 Tempo di Menuetto どこか親しみのある軽妙だが味わい深い旋律がヴァイオリンとチェロによって呼応しあうメヌエット。そして管楽器の柔らかくも機敏な混ざり合いが微笑ましいトリオ。ちょっとしたリラックスタイム。 第四楽章 主題と変奏: Andante 全ての楽器が主役を交代しながら絶妙に活躍する、聴き所満載の楽章。それぞれの楽器の特性を活かしながらも、主題と変奏が無理なく美しく進行していく。メロディーの美しさと素直な構成感が心地よく、その骨太な曲想をもったこの楽章こそが、ある意味曲全体の充実感を深めているのかもしれない。 第五楽章 Scherzo: Allegro molto e vivace ホルンによる合図とそれに呼応する楽器群、そしてたたみかけるようにきらびやかに展開する音の洪水。中間部に入ると一転チェロが主題を朗々と歌いあげる。 第六楽章 Andante con moto alla Marcia – Presto 冒頭は神妙な歩みを表現しているが、実はそこにもほのかな温かみを見出すことが出来る。それはこの曲の全体的な幸福感の再提示である。そして第一楽章以上に希望に満ちたメロディーの疾走とヴァイオリンの超絶的な躍動で、この楽章は力強く、しかも鋭利なリズムも伴いながら直進する。途中、ほっとするようなシーンと幻想的なヴァイオリン・ソロで夢の世界を彷徨うものの、最後は活力に満ちた生命感をもって曲を結ぶ。 (by 小西達也) |