フランツ・ヨーゼフ・ハイドン 弦楽四重奏曲 ニ短調 「五度」作品76-2 「交響曲の父」と呼ばれるフランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732−1809)は、番号が付いているものだけでも104もの交響曲を作曲し、この分野を完成させた。一方、弦楽四重奏曲も83の作品が存在している。多分に依頼主の事情に影響されざるをえなかった交響曲と異なり、純粋に自らの意図を顕すことができたという点で、ハイドンにとって弦楽四重奏曲は重要な作品群だといえる。モーツァルト、ベートーヴェンを経て現代にまで繋がっていく弦楽四重奏曲を確立したという業績を考えれば、「交響曲の父」は、同時に「弦楽四重奏曲の父」でもある。 ハイドンの初期の弦楽四重奏曲(1757−59ごろ)は、楽器編成こそ弦楽四重奏だが、彼自身はディヴェルティメント(喜遊曲)として作曲したものである。通常ディヴェルティメントは5楽章構成であったが、1770年ごろ、ハイドンは舞曲の楽章を一つ省いて4楽章構成とし、弦楽四重奏曲という形を確立した。そして最後の未完成の弦楽四重奏曲(1803)まで約45年間にわたり、彼は弦楽四重奏曲を作曲し続けた。 弦楽四重奏曲集作品76の6曲は、ハイドンの理解者であったヨーゼフ・エルデーディ伯爵に捧げられたことから「エルデーディ四重奏曲」と呼ばれている。これは晩年のハイドンの弦楽四重奏曲に対する結論ともいえる曲集である。6曲のうち3曲は愛称(第2番「五度」、第3番「皇帝」、第4番「日の出」)が付いており、特に親しまれている。 少し話がそれるが、ハイドンの作品には愛称が付いたものが多い。例えば交響曲では「驚愕」「時計」など、弦楽四重奏曲では「ひばり」「騎士」などが有名だ。中には愛称からはどんな曲なのか予想もつかないような作品(交響曲「火事」「迂闊者」、弦楽四重奏曲「蛙」「剃刀」など)もあるが、かえって興味が湧いてくる。 「五度」という愛称は、第一楽章冒頭の第一ヴァイオリンの旋律が「ラ→レ、ミ→ラ」という五度の音程で始まることに由来している。この五度の音程は第一楽章を中心に全曲に散りばめられているので、それを探しながら聴くのも面白いだろう。第三楽章のメヌエットも独特だ。メヌエットの主部で第一ヴァイオリン・第二ヴァイオリンと、ヴィオラ・チェロとに分かれ、全く同じ旋律を一小節ずらして演奏するが、この曲想はなんとも異様で「魔女のメヌエット」とも呼ばれる。 ハイドンはモーツァルト、ベートーヴェンと並んで古典派の三大作曲家の一人に数えられる。しかし、モーツァルトの天衣無縫の音楽、ベートーヴェンの質実剛健の音楽に隠れ、その存在感はやや乏しい。しかし「五度」を聴けば、彼が実際はなかなか実験的精神やユーモアに溢れる才知縦横の作曲家であり、二人の天才に勝るとも劣らない存在であることを、お分かり頂けるだろう。 (by 石川統之) ジョルジュ・ビゼー/ピーター・シンプソン フルート・チェロ・ピアノのためのカルメン幻想曲 オペラ『カルメン』(1874)は、メリメの同名の小説をもとにオペラ化されたジョルジュ・ビゼー(1838−75)の代表作である。物語の舞台は1820年ごろのスペイン南部のセビリャである。たばこ工場で働くジプシー女カルメンと竜騎兵の伍長ドン・ホセを中心に、ドン・ホセの許嫁ミカエラや闘牛士エスカミーリョなどによって恋物語が繰り広げられる。 『カルメン』ほど観る者に強い印象を与えるオペラも少ないのではなかろうか。1875年3月のパリ初演では、このオペラを攻撃した批評家がいた一方で、ビゼーと同世代の作曲家サン=サーンス(1835−1921)は称賛している。賛否両論巻き起こるのは、その作品が、全く新しい真実を持っているからだろうし、数ヶ月後のウィーン初演でひとたび受け入れられて以来、ずっと人気オペラの地位を保ち続けているのもまた、いつの時代の人々にも通じる真実をこのオペラが持っているからに違いあるまい。およそ『カルメン』を観た人で、密かにカルメンあるいはドン・ホセに自分自身を重ね合わせて、身を滅ぼすまでに生ききってみたいと思わなかった人がいるだろうか。そんな気分をいやがうえにも盛り上げるのが、スペイン情緒に溢れ、登場人物の心理を生き生きと鮮やかに描き出すビゼーの素晴らしい音楽なのだ。 『カルメン』の音楽は他の音楽家を刺激しないではおかなかった。例えばスペインのヴァイオリニスト、サラサーテ(1844−1908)や、フランスのフルーティスト、ボルン(1840−1920)は、それぞれ自分の楽器のための『カルメン幻想曲』を作曲している。最近では、ロシアのシチェドリン(1932−)が世界的バレリーナである妻、マイヤ・プリセツカヤのために『カルメン組曲』を作曲して有名になっている。本日の『カルメン幻想曲』もそのような作品の一つで、アメリカのファゴット奏者シンプソンがフルート、ファゴット(またはチェロ)とピアノの三重奏のために特に愛されている以下の4曲を纏めたものである。 第一曲 「アラゴネーズ」 アラゴン風舞曲の意味を持つ。アラゴンはイベリア半島東部の地域名である。 第二曲 「アルカラの竜騎兵」 アルカラはセビリャ近くの町の名前である。竜騎兵というのは元来、16−17世紀ヨーロッパの銃で武装した騎兵のことだが、舞台は19世紀であるから、竜騎兵の流れを受け継ぐ軍隊なのであろう。 第三曲 「間奏曲」 劇音楽『アルルの女』のために書かれ、『カルメン』に転用されたといわれている。 第四曲 「ジプシーの踊り」 第二幕でカルメン達ジプシーが酒場で歌い踊る曲である。 (by 石川統之) アントニーン・ドヴォルジャーク 弦楽四重奏曲 ヘ長調 「アメリカ」作品96 19世紀後半は、ヨーロッパにおいて民族意識が高まった時代であった。1848年、フランスで起きた二月革命を契機に復古的なウィーン体制が崩壊し、オーストリア領内で被支配民族の民族運動が盛んになった。チェコもまた例外ではなく、民族言語であるチェコ語の新聞が発行されたり、民族独自の音楽の創造を目指す動きが現れたりした。 アントニーン・ドヴォルジャーク(1841−1904)は、この時代に登場し、チェコの民謡や舞曲のエッセンスを自らの曲に取り入れ、いわゆる「クラシック」の形に昇華させたことから、一般にはチェコ国民楽派の作曲家とされている。しかし彼を民族的な視点からのみ理解するのは少々短絡的に過ぎるのではないかと思われる。 そもそも彼は他の音楽を取り入れ、我が物とする能力に長けていた。初期の作品ではベートーヴェンやシューベルトからの、交響曲第3番や弦楽四重奏曲第2番〜第4番にはワーグナーの影響が見られる。また第6、第7交響曲はそれぞれ、ブラームスの第2、第3交響曲と構成の点で類似している。このようにドヴォルジャークは過去の偉大な作曲家の作曲技法や精神を自分の作品に取り入れることによって、数々の作品を書いている。チェコ民族音楽も、これら先人の音楽と同様に扱われるべきであろう。(もちろん、これは彼に民族的な感情がなかったという意味ではない。) 1892年、ドヴォルジャークはニューヨークのナショナル音楽院の院長として招聘された。ここで彼はアフリカン・アメリカンやネイティヴ・アメリカンの音楽と出会う。ここでも彼は持ち前の才能を活かしてそれらの音楽のエッセンスを取り入れ、自分の音楽表現の幅を広げた。この成果が、交響曲第9番「新世界より」(1893)、弦楽五重奏曲変ホ長調(1893)、ヴァイオリンとピアノのためのソナチネ(1893)、その第7番がヴァイオリン用に編曲されて有名になったピアノ曲『8つのユモレスク』(1894)、チェロ協奏曲(1895)などである。これらの作品には、5音音階(ド、レ、ミ、ソ、ラ)やシンコペーションの多用など、アメリカ音楽の特徴が共通して顕れている。 この時期の作品で、ドヴォルジャークの代表的な室内楽作品でもある弦楽四重奏曲「アメリカ」(1893)もまた例外ではない。その愛称の示す通り、アメリカの影響が随所に見られる。(この曲の愛称は、英語では「American」であるから、本来「アメリカ風」と訳すのが正しい。)この曲では、先に述べた音階やリズムのほかにも、黒人の民謡も取り入れられている。これは、ドヴォルジャークがこの年の夏を過ごしたアイオワ州のスピルヴィルという村で聞いた黒人霊歌の影響といわれている。とはいえ、その音楽の本質を保ちつつ、同時にいわゆる「クラシック」の伝統に則っているあたりは、作曲家の非凡たる所以であろう。 (by 石川統之) |