「世界は夢になり、夢は世界になる」 (ノヴァーリス) |
有史以来、人類は様々な方法で自らの周囲に広がる世界を探索し、理解しようと努めてきた。ある者は経験によって、ある者は理性によって・・・。19世紀ヨーロッパに登場したロマン主義思想家の場合、その手段は感性と想像力であった。彼らにとって自己の内面に分け入ることは科学者が自然を探求するのと同様に、あるいはそれ以上に世界の真理に迫る行為だったのである。冒頭のノヴァーリスの言葉が示すように、極端な場合には個人の夢の中にこそ世界の本質が存在していると考えられた。 このような思想は芸術表現においても大きな変化をもたらす。芸術家は自らの心に浮かぶものを、あるがままに作品に投影することを許されるようになった。それゆえロマン主義時代の芸術は、個人的な経験・印象・心情、あるいは内発的な衝動を反映していることが珍しくない。直前の古典派の時代には客観性・合理性・形式的な均一性・有機的統一感が重んじられたが、これと比べるとこのようなロマン派芸術の斬新さは際立っている。 ロマン主義思想によって引き起こされた最も大きな影響はおそらく民族主義の勃興だろう。個人の想像力や感性を重んずることは、それを形成する民族や言語、伝説や神話などを貴重な存在とみなすことにつながったのである。折しも19世紀前半はドイツが近代的統一国家樹立に向けて動き始めた時期に当ったため、ロマン主義はまずドイツ文化圏で根を張り、花を咲かせた。ロマン主義にとってドイツは土壌となり、ドイツにとってロマン主義は民族運動の精神基盤となった。 このような時代の空気は、現代に残る芸術作品の中に明快な形で保存されている。音楽によるドイツ・ロマン主義の具現化はウェーバー、シューベルト、メンデルスゾーンに始まり、その成果はシューマン、ワーグナーを経て、マーラー、R.シュトラウスへと受け継がれる。とりわけ初期の三人の作曲家が果した役割は、ロマン主義音楽の形成という観点で重要である。 ウェーバー(1786-1826)はその代表的オペラ『魔弾の射手』において「魔法」「悪魔」にまつわる民話を取り上げ、これをドイツ語によって歌い上げた。彼はこれらの行為によってロマン主義的な幻想への憧憬や民族主義を音楽と結びつけることに成功した。これは真にドイツ的な音楽の創始でもあった。 ドイツ語による歌曲はロマン主義の重要な成果である。無論、これ以前にもドイツ語による歌曲がなかった訳ではないが、それはシューベルト(1797-1828)によって初めてひとつの芸術分野として確立された。また、彼の歌曲の中でピアノが担う情景描写や心理描写も、感性を重んじるこの時代の思想の反映と言えよう。 これをさらに突き詰め、器楽におけるロマン主義の在り様を模索したのがメンデルスゾーン(1809-1847)である。例えば、ピアノ独奏曲「無言歌」はその大きな果実ではないだろうか。ここでは情念が言葉を介することなく、音によって表現されている。また、序曲『フィンガルの洞窟』や交響曲「スコットランド」は、作曲者がかの地で抱いた印象を音楽的に再現したものだが、これもロマン派器楽の一つの類型となった。これらの業績は、ドイツ民族が育んだロマン主義音楽をドイツから解放し、普遍的なものへと高めるものであった。 このようにロマン主義が音楽の幅を拡げたことは疑いの余地がない。しかし、これは同時に音楽を内側から瓦解させる種を植え付けることにもなった。個人の夢が投影された作品を芸術とみなすのか、妄想とみなすのかは解釈の問題となる。それゆえ、作曲者は言葉によって自らの作品の芸術性を論じる必要に迫られる。そういう意味で、シューマンやワーグナーが音楽評論の世界で活躍したのは必然だった。この事実に鑑みれば、古典派の美徳がかろうじてその影響を保っていた初期ロマン主義時代は、音楽が純粋に音楽として成立していた最後の時代だったとも言えるのである。 フェリックス・メンデルスゾーン 弦楽四重奏曲 第一番 変ホ長調 作品12 自らの「夢」を芸術の中に表現することが是とされた時代にあって、メンデルスゾーンは古典的な規範を守り続けたと言われる。即ち、過度な情緒への耽溺を避け、音楽の均整と有機的統一感を重んじたとされる。 弦楽四重奏曲第一番を見る限り、この見方は半分正しく、半分間違っている。四つの楽器が複雑に絡み合う構造は古典派の頂点をなしたベートーヴェンを髣髴とさせる。しかし、形式的な統一感を顧みない奔放な旋律の展開はまさにロマン派というに相応しい。一方、第三〜第四楽章を連続させ、第一楽章の第二ヴァイオリンの旋律を第四楽章に再び登場させることによって、全楽章を一つの塊として捉えた時の有機的な結合力や劇的効果は高められており、古典派的な配慮も見られる。 この曲を介して、古典派とロマン派の両者の美点を絶妙なバランス感覚によって両立させたメンデルゾーンの洗練された姿を思い描くことが出来るのではないだろうか。 ヨーゼフ・キュフナー(伝ウェーバー) クラリネット五重奏のための序奏、主題と変奏 この曲は1815年に初めて出版された時にウェーバーの作品とされ、以来20世紀半ばまでそう信じられてきた。現在も多くの楽譜・録音はウェーバーの名を冠している。しかし、近年の研究によれば本当の作曲者はヨーゼフ・キュフナー(1776-1856)である。 ロマン主義の時代は、従来貴族の占有物だった芸術が市民階級に解放された時代でもあった。だが、芸術音楽が時として新興ブルジョワジーの理解の範疇を超えたためか、彼らによりもてはやされたのは超絶技巧を駆使した華麗な器楽曲であった。華々しく、目新しい演奏効果を追求したこれらの曲は、人口に膾炙するほどに飽きられ、やがては忘れられるという逆説的な宿命を負っていた。事実パガニーニの作品ような少数の例外を除けば、ほとんどがこの運命を辿った。しかしこの事実がこれらの曲の価値を正しく反映しているかは注意深く考えるべきだろう。 キュフナーもこのような忘れられた作曲家の一人だが、幸いにして「序奏、主題と変奏」だけは現代のクラリネット奏者にとって馴染み深い曲として定着している。これは出版社が販売促進のためにこの曲をウェーバーの作品と偽ったことによるところが大きい。我々が、ロマン主義と時を同じくして一世を風靡した超絶技巧音楽の真価を改めて問うことが出来るのも、この営利行為の‘恩恵’だとすれば皮肉なものである。 曲はゆっくりとした序奏に始まり、Allegrettoの主題と六つの変奏で構成される。それぞれの変奏ではクラリネットという楽器の技巧と表現の可能性が追求されている。 フランツ・シューベルト ピアノ五重奏曲 イ長調「鱒」作品114 シューベルトの名はまずドイツ歌曲という新分野の開拓者として歴史上に刻まれている。勿論、彼の器楽作曲家としての功績も偉大だが、これを語るにも歌曲に触れなければならないことが多い。ピアノ五重奏曲「鱒」はその一つの典型である。 1819年の夏、シューベルトは中部オーストリアを訪れる。シューベルトの才能をいち早く認め、それを世に知らしめた名歌手フォーグルに誘われ、避暑を兼ねた演奏旅行に伴奏者として随行したのだ。この途上二人はシュタイアの鉱山業者パルムガルトナーの家に滞在し、厚遇される。アマチュアのチェロ奏者でもあったこの音楽愛好家は、自ら演奏するための器楽曲をシューベルトに依頼した。これに応えて作曲されたのがピアノ五重奏曲「鱒」である。作曲に際してシューベルトはパルムガルトナーが好んだ自作の歌曲「鱒」の旋律を第四楽章の変奏曲の主題として用い、その厚意に報いた。かように、この曲はその成立の経緯も、旋律も、愛称も、シューベルトの歌曲の業績なしに論ずることは出来ない。 しばしば指摘されるようにピアノ五重奏曲「鱒」は、無邪気と言えるほど単純な形式によって構成されており、古典的な美徳〜形式的統一感・素材の有機的結合〜からは外れている。その代わりに叙情性や鮮やかな色彩感などロマン的な魅力に溢れている。第一楽章の中間部や第二楽章におけるめまぐるしい和声の変化はシューベルトの「夢」そのものであろうし、「鱒」の旋律による第四楽章はこの夏の旅行中各地で喝采をもって迎えられたシューベルトの幸福感やシュタイアの風景の反映であろう。そしてその響きの中には、確かにひとつの「世界」が広がっているのである。 (by 坂本謙太郎) |